人口44,268人、面積138.18km²、人口密度320人/km²。(2023年12月1日、推計人口)
以下の2町を含む。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のほか岩沼市の一部(吹上・吹上西・阿武隈・大昭和など)を加えた区域にあたる。 現市町村界での国勢調査人口の推移(単位:人)を以下に示す[1][2]。 亘理郡 亘理町 山元町 古代は曰理郡と表記された。 宮城県第19大区(全8小区。亘理郡1?6・宇多郡) 宮城県第10大区(全14小区。伊具郡・宇多郡・亘理郡10?14) 宮城県第1大区(全9小区。刈田郡・柴田郡・伊具郡・亘理郡8?9)
亘理町(わたりちょう)
山元町(やまもとちょう)
郡域
人口
歴史
近世以降の沿革
幕末の時点では陸奥国に所属し、全域が南方郡奉行亘理代官所(小堤村)管轄の仙台藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り。若干の混交はあるが、本藩領1村(小山)、大條氏知行地2村余(坂元・真庭および高瀬のうち笠野浜・新浜)を除く23村の大部分が亘理伊達氏の知行地であった。
坂元本郷、小堤村、吉田村、長瀞村、八手庭村、大平村、小平村、鷲足村、山寺村、浅生原村[3]、高瀬村、真庭村、高須賀村、鹿島村、高屋村、鷺屋村、蕨村、榎袋村、神宮寺村、上郡村、下郡村、田沢村、十文字村、牛袋村、中泉村、小山村
明治元年
9月24日(1868年11月8日) - 仙台藩主伊達慶邦が薩長軍に降伏。全領土62万石を没収される。
12月7日(1869年1月19日) - 陸奥国が分割され、本郡は磐城国の所属となる。
12月24日(1869年2月5日) - 刈田郡白石城に転封された白石藩主南部氏(旧盛岡藩主)の所領となる。
明治2年
8月7日(1869年9月12日) - 南部氏の盛岡復帰により、旧白石藩領を以て白石県を設置。
11月27日(1869年12月29日) - 白石県が角田県に改称。
明治4年11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により仙台県の管轄となる。
明治5年
1月8日(1872年2月16日) - 仙台県が宮城県に改称。
4月9日(1872年6月10日) - 大区小区制の施行により、宇多郡と共に宮城県第19大区となる。
小区所属村
小1区牛袋村、榎袋村、上郡村、下郡村、小山村、鷺屋村、十文字村、田沢村、中泉村
小2区高須賀村、高屋村、蕨村
小3区小堤村、鹿島村、神宮寺村
小4区吉田村、長瀞村、八手庭村、大平村、小平村
小5区鷲足村、山寺村、浅生原村、高瀬村
小6区坂元本郷、真庭村
明治7年(1874年)4月 - 区の再編により、伊具郡・宇多郡と共に宮城県第10大区となる。
小区所属村
小10区坂元本郷、真庭村(+宇多郡:福田村、真弓村、埒木崎村)
小11区大平村、小平村、鷲足村、山寺村、浅生原村、高瀬村
小12区小堤村、鹿島村、長瀞村、吉田村、八手庭村
小13区牛袋村、上郡村、下郡村、小山村、神宮寺村、田沢村、中泉村
小14区高須賀村、榎袋村、高屋村、鷺屋村、十文字村、蕨村
明治9年(1876年)4月22日 - 磐前県の管轄となる。
明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により宮城県に復帰する。
明治9年(1876年)11月 - 区の再編により、刈田郡・柴田郡・伊具郡と共に宮城県第1大区となる。
小区所属村
小8区小堤村、長瀞村、吉田村、八手庭村、大平村、小平村、鷲足村、山寺村、浅生原村、高瀬村、真庭村、坂元本郷
小9区高須賀村、牛袋村、榎袋村、鹿島村、高屋村、上郡村、下郡村、小山村、鷺屋村、十文字村、神宮寺村、田沢村、中泉村、蕨村
明治11年(1878年)10月21日 - 郡区町村編制法の宮城県での施行により、行政区画としての亘理郡が発足。「伊具亘理郡役所」が伊具郡角田本郷に設置され、同郡とともに管轄。同日大区小区制を廃止。
町村制以降の沿革41.亘理町 42.坂元村 43.山下村 44.吉田村 45.逢隈村 46.荒浜村 (橙:亘理町 黄:山元町 緑:岩沼市。1 - 11は刈田郡 21 - 35は伊具郡)
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足[4]。
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