井脇ノブ子
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日本政治家井脇 ノブ子いわき のぶこ
2006年
生年月日 (1946-02-11) 1946年2月11日(76歳)
出生地大分県南海部郡鶴見町(現:佐伯市鶴見地区)
出身校別府大学文学部史学科
拓殖大学大学院経済学研究科
前職学校法人役員
所属政党(無所属→)
新進党→)
自由党→)
自由民主党二階グループ二階派
衆議院議員
選挙区比例近畿ブロック大阪11区
当選回数1回
在任期間2005年 - 2009年
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井脇 ノブ子(いわき ノブこ、1946年2月11日 ‐ )は、日本教育者政治家志帥会参与。

衆議院議員(1期)、自由民主党女性局次長、学校法人理事長、国民の祝日を祝う会理事などを歴任[1]。愛称はノブ姐。ダイノジのメンバーの一人である大谷ノブ彦とは親戚関係である[2][3][4]
来歴
幼少期

漁師の9人兄妹の末っ子として、大分県南海部郡鶴見町(現佐伯市)で誕生[5]。男勝りな性格から金太郎というあだ名が付けられた[6]

家は決して裕福ではなく、毎日朝4時から海に潜り、アワビサザエを採取して市場で売り家計を助けていた。水泳の上達はその賜物である。小学校のときには厚生大臣になるという夢を持つ[6]
学生時代

1964年に佐伯学園佐伯高等学校(現・日本文理大学附属高等学校)を卒業[5]し、別府大学文学部史学科に進学[5]。大学時代には学園紛争が盛んな頃であり、大学自治会会長を務める傍ら大分大学衛藤晟一等とともに大分大学学生協議会・全国学生自治体連絡協議会(全国学協)を結成し副委員長に就任。「学園正常化」を掲げ、全学連と対峙した[7]

1968年3月に卒業[5]拓殖大学大学院経済学研究科修士課程に進む[5]。当時の総長中曽根康弘の秘書となり、9月には総理府主催第2回青年の船に団員として参加。学生運動でも、70年安保闘争で民族派学生3万6000人を率いて議員会館を取り囲んだ。その結果議員会館と国会議事堂が地下トンネルでつながることとなる[6]
教育者として

大学院修了後の1971年7月に第1回少年の船実施[5]。その後、財団法人少年の船協会を設立し、理事長・団長を兼任。また、27?8歳の頃には婚約者がいたが、「結婚して何人かの子供を育てるより何千人もの子供たちを自分の子と思って愛情をそそぎなさい」という母の言葉を受け、結婚には至らず、以後独身を貫く[8]1980年12月、第1回難民キャンプボランティア活動隊実施[5]1981年4月、国際ボランティア協会会長に就任[5]

1985年4月、学校法人国際開洋学園静岡県)を設立[5]、理事長に就任、国際開洋第一高等学校(静岡県)を設立し学校長に就任[5]1987年7月、国際開洋カナダハイスクールを創立、理事長に就任、学校長も兼任。1990年4月、国際開洋第二高等学校和歌山県)が設立され学校長に就任[5]、日本カナダ文化交流協会会長に就任[5]

1992年4月、日本の観光を考える百人委員会委員就任[5]、財団法人国民の祝日を祝う会理事、日中婦人学会会長に就任[5]。1992年7月、タイのワットサケオ身障者施設内に井脇ノブ子記念病院、井脇教育館(小学校)を建設[5]
選挙活動

1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に初めて無所属旧大分1区から出馬、8,288票得票、7名中7位で村山富市(後の第81代内閣総理大臣)らに敗れ落選。

1995年7月、第17回参議院議員通常選挙和歌山県選挙区新進党より出馬し、140,570票得票し現職に2万票まで迫るが次点。

1996年10月、第41回衆議院議員総選挙静岡3区に新進党より出馬し、70415票得票して次点。

1998年7月、第18回参議院議員通常選挙静岡県選挙区自由党より出馬し、落選。落選後、国際開洋第一高等学校が寮内の薬物汚染の実態を発表。静岡県からはその後立候補していない。

2000年6月、第42回衆議院議員総選挙比例東海ブロックに自由党より比例単独4位で出馬し、落選。

2001年7月、第19回参議院議員通常選挙参議院比例区に自由党より出馬し、落選。

2005年9月、第44回衆議院議員総選挙大阪11区自由民主党より出馬、98,613票得票し民主党前職平野博文に3万票まで迫るが次点。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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