井端弘和
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井端 弘和野球日本代表 監督 #89
中日ドラゴンズ時代
(2008年7月4日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県川崎市川崎区
生年月日 (1975-05-12) 1975年5月12日(49歳)
身長
体重173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り1997年 ドラフト5位
初出場1998年9月8日
最終出場2015年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


堀越高等学校

亜細亜大学

中日ドラゴンズ (1998 - 2013)

読売ジャイアンツ (2014 - 2015)

指導歴


読売ジャイアンツ (2016 - 2018)

日本代表 (2017 - )

トップチーム (2017 - 2021, 2023 - )

U-12 (2022 - 2023)

U-15 (2024 - )


NTT東日本

国際大会
代表チーム 日本
WBC2013年
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【イバTV】井端弘和公式チャンネル
YouTube
チャンネル

【イバTV】井端弘和公式チャンネル

活動期間2019年9月3日 -
ジャンル野球
登録者数18.9万人
総再生回数3405万回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2020

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002024-02-05-00002024年2月5日時点。
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井端 弘和(いばた ひろかず、1975年5月12日 - )は、神奈川県川崎市川崎区出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)、野球解説者野球評論家。現在は野球日本代表監督を務めている。

中日ドラゴンズ時代は同僚の荒木雅博と共に「アライバコンビ」の愛称で親しまれた。妻は元テレビ朝日アナウンサー河野明子
経歴
プロ入り前

川崎市立川中島中学校時代までは投手で県立高校への進学を考えていたが、城南品川リトルシニア在籍時に対戦した港東ムースとの試合を観ていた野村克也から直接電話をもらい「投手から遊撃手への転向」と「堀越高等学校へ進学」をアドバイスされ、堀越へと進学[1][2]。堀越高等学校時代は2年時に第64回選抜高等学校野球大会、3年時に第75回全国高等学校野球選手権大会に出場。その後亜細亜大学に進学。東都大学1部リーグ通算81試合出場、269打数78安打打率.290、4本塁打、33打点。3年秋から3季連続ベストナイン(二塁手)に選ばれた。2部リーグ(2年春のみ)通算11試合出場、48打数14安打、打率.291、1本塁打、5打点。
1年時は4年・沖原佳典と二遊間を組み、1年上に部坂俊之中野栄一(プロでも同僚)、1年下に赤星憲広がいた3年秋にリーグ戦優勝。

堀越高校時代の桑原秀範亜細亜大学時代の内田俊雄と2人の広島商業OBに小技を極め、精神力を鍛え抜く、いわばスモールベースボールを7年間で骨の髄までたたき込まれた[2][3][4][5][6][7]。井端の源流は広商野球にあった[2]

1997年のドラフト会議中日ドラゴンズから5位指名を受け入団。
中日時代

1年目の1998年はシーズン後半戦で一軍に合流し、一軍では18試合に出場した[8]同年オフのドラフト会議で中日は井端と同じ遊撃手である福留孝介を1位指名し、翌1999年は福留がレギュラーに定着したため、井端は出場機会を得られず、一軍出場なしに終わる[8]。一方で本人は2000年春季キャンプでチームの主力選手たちを観察し、バントを確実にこなせる選手や守備力に秀でた選手がいないと感じたことから、それらの技術を磨いて一軍での出場機会を得ようと考えた[8]。2000年シーズンは開幕から一軍に帯同し、開幕6試合目の対読売ジャイアンツ(巨人)3回戦で相手の先発投手である新人・高橋尚成との相性を星野仙一監督から尋ねられ、つい「5割は打ってました」と嘘を言ったが、この試合の8回に代打として起用され、中堅前への安打を放つ。1か月後の対巨人3連戦では同年初のスタメン出場を果たし、3試合とも2安打1打点の成績を残した[8]。同年からは試合終盤の守備固め代走、またはレギュラーとして出場機会を増やしていく。

2001年から全試合出場し、2番遊撃手としてレギュラーに定着した。

2002年には初のベストナインを受賞、オフに背番号を6に変更。

2004年には選手会長に就任し、チームの柱としてリーグ優勝に貢献した。また、自身2度目となるベストナイン(以降、2007年までに4年連続)、自身初の打率3割、ゴールデングラブ賞を受賞した。

2005年には2年連続の打率3割とともに、規定打席到達者中12球団トップの得点圏打率を残す。同年8月27日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤドーム)では6回二死満塁の打席で天野浩一から自身初の満塁本塁打を放った[9]

国際大会での日本代表経験は、2001年に台湾で開催されたIBAFワールドカップ(4位)を皮切りに、2002年キューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップ(準々決勝リーグ敗退)出場。2003年アテネオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権では長嶋ジャパンの一員として優勝。

2007年の北京オリンピック予選では2大会連続での本戦出場権獲得。一方で、2006年および2009年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではメンバーに入らなかった[10]

2008年8月3日にFA権を取得するも、その日の中日スポーツ朝刊で残留を宣言[11]、12月16日に球団史上最長の5年契約を結ぶ[12]。オフの12月22日、テレビ朝日アナウンサー河野明子と結婚した[13]

2009年の初めグアムに自主トレに行った際に目の腫れや痛みを訴え、帰国後の医師による診断で上皮角膜ヘルペスによるものだと判明した。肩の故障もあり二塁手にコンバートされる予定であったが、井端本人の調整が目の不調により遅れたことに加え、代わって遊撃手を務める予定であった荒木雅博が開幕直前に足を痛めたことで見送られた[14]。調整は遅れていたもののシーズンでは主に1番打者として全試合に出場し、4年ぶりに打率3割を達成。12月3日には社団法人日本プロ野球選手会の理事長に就任した(2013年12月に退任)。

2010年は予定通り二塁手にコンバート、またチーム方針により6番の打順を任されることが多かった。6月5日の対ロッテ戦で、1500本安打を達成した[15]。6月11日に登録抹消。7月15日に一度一軍復帰するも、途中出場3試合のみで7月25日に再び登録抹消。復帰は10月2日の最終戦になった。離脱の理由は眼病によるもので、ボールがぼやけて見える不調が生じこの年は144試合中53試合しか出場できなかった。長期離脱により2000年以来の規定打席未到達、前年まで6年連続で受賞していたゴールデングラブ賞も逃し、二塁のレギュラーポジションも堂上直倫に明け渡した。11月26日には減額制限一杯となる40パーセントダウン(3億円→1億8千万円・推定)で契約更改[16]。治療を続けていた目に回復の兆しが見られず痛みが続いていたため、このシーズンには引退も考えていた。

2011年は再び2番打者として起用される。7月26日、第一子となる長男が誕生する。打撃面ではプロ入り後で最低の成績に終わった。9月1日にはNPBから反ドーピング規則違反の処分を受けるが、これは目の治療のために使用していた薬物の許可期限切れに伴う継続申請を怠っていた中日球団の過失によるところが大きいと認定され、最も軽いけん責処分となっている。

2012年、開幕戦から6番打者として起用されていたが、シーズン中盤からは5番を務めた。守備面では再び遊撃手に戻り、荒木も元の二塁手に再コンバートされた。最終的に打率.284を残し、3年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。オフの11月6日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表が発表され[17]代表入りした[18]。12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され[19]候補入りした[20]第3回WBCでの井端

2013年2月20日に第3回WBC日本代表選手28人に選出された[21]。背番号は「3」だった。ブラジル戦で同点打、3月8日の台湾戦では9回二死から同点打を打ち、打率.556と決勝ラウンドに進出した全選手の中で最も高い打率を記録した。指名打者としても出場し、東京ラウンドのMVPを獲得、大会ベストナインの指名打者部門にも選出された。特に2次ラウンドの台湾戦の同点適時打については「一生忘れない」と語った[22]。シーズン公式戦では100試合出場で打率.236、1本塁打、シーズン後は球団の勧めもあり右足首と右肘の手術を受けるが、手術を受けた後に球団の体制が変わり[23]、年俸減額限度額を越える大幅減俸の提示を受け、秋季キャンプには1人だけ不参加[24][25]。11月4日に球団から翌年の契約を結ばないことが発表された[26]
巨人時代巨人時代(2014年3月1日)

2013年11月26日に読売ジャイアンツとの契約の合意が発表され[27]、12月3日に入団会見する。背番号は2。12月13日に第二子となる長女誕生。

2014年は、脚に不安を抱える片岡治大に次ぐ二塁手など、主に内野の守備要員として試合に出場する。また、片岡が連戦の疲れを考慮して休養する際は二塁手でスタメン出場し、正遊撃手の坂本勇人が故障等で先発出場ができない際には遊撃手として先発する。7月6日には古巣の中日からの第1号となる本塁打を濱田達郎から打つ。5年ぶりにシーズン3本塁打、CSファイナルステージ阪神戦では第2戦の7回に岩田稔から2点本塁打を打つ。


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