井手正敬
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この項目では、西日本旅客鉄道(JR西日本)代表取締役会長について説明しています。宮城事件首謀者については「井田正孝」をご覧ください。

井手 正敬(いで まさたか、1935年4月3日 - )は、日本の実業家西日本旅客鉄道(JR西日本)社長・会長を歴任。内閣法制局第一部長や文部次官を務めた井手成三は父[1]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}兵庫県芦屋市在住[要出典]。
人物

福井県小浜市生まれ。学習院初等科[2]学習院中等科[3]を経て、1954年に東京都立戸山高等学校卒業[4]東京大学経済学部卒業後、日本国有鉄道(国鉄)入社[5]葛西敬之松田昌士とともに「国鉄改革3人組」と称され、国鉄の分割民営化に尽力した[6]

1992年平成4年)にJR西日本社長就任[7]ワンマン経営者として知られ[8]、社長・会長を11年務め、JR西日本は「井手商会(商店)」と呼ばれるほどであった[9][10]。また、そのワンマン振りから社内では「(井手)天皇」というあだ名でも恐れられていた[11][10][12]。後に第5代社長となる山崎正夫などからも恐れられる存在であったが、後述のJR福知山線脱線事故後、安全性よりも収益性の改善を優先させた、との批判を浴び、また職場規律が弛緩しがちな国営時代の体質を改善するために実施された日勤教育の実態が批判されたことにより相談役を引責辞任した。

2022年5月、葛西敬之が死去したことにより、国鉄改革3人組唯一の存命者となった[13]
批判
JR総連について

2022年(令和4年)10月、井手は産経新聞のインタビューにおいて、国鉄改革の労使問題に触れ、同問題は同時点でも未解決であり、「北海道貨物にはまだJR総連(全日本鉄道労働組合総連合会)の影響力が残っている」「終焉したとは言えないかもしれない」などと述べた。これに対し、JR総連は「井手などによる手段を選ばない組織破壊攻撃が労使関係を破壊し、安全よりも運行優先・利益優先の職場支配に至り、JR福知山線脱線事故発生の遠因になった」などと指摘する抗議声明を出した[14][15]
JR東海について

2022年(令和4年)10月、井手は産経新聞のインタビューにおいて、JR東海の名誉会長で同年5月に死去した葛西敬之が同社とJR西日本の合併構想を持っており、「将来は東海と西日本が一緒になって、東西で分けようという構想を持っていたのではないか」と発言したが、JR東海社長の金子慎は同月20日の定例記者会見において、「この合併案は『井手さんの構想』と葛西から直接聞いた。葛西の考えではないし、否定的だった」と反論。更に葛西が生前に出版した著書の中でも「井手氏の構想」と記載していたことにも触れた上で「葛西の生前の考えとは異なっており、亡くなってから(井手氏が)おっしゃるのはどうなのか」と批判した[16]
JR福知山線脱線事故について

脱線事故の後、遺族が井手との面会を求めているとJR西日本から伝えられた。遺族には直接会って謝らねばならないと考えていた井手はJR西日本に対し承諾の返事をしたが、その際「企業風土に問題はなかったとはっきり言う」とも伝えたところ、「それなら結構です」と言われ面会は実現しなかった[10]。辞任後、JR西日本子会社の幹部に天下りしていたことが発覚し、脱線事故の遺族から猛非難を浴びている[17]

井手は脱線事故に関して、他の歴代社長と同様に神戸地検より不起訴処分となっていた。しかし、2009年(平成21年)10月22日、神戸第1検察審査会は、井手を起訴すべきだとする「起訴相当」を議決した[18]。その後また不起訴処分となるも、検察審査会により再び起訴相当の議決をされたために強制起訴されることとなり、2010年4月23日、脱線事故から(公訴時効である)5年を前に、在宅起訴された[19]。同日起訴された歴代社長である南谷昌二郎垣内剛は報道陣からの取材に応じ、陳謝したが、井手は取材に応じず、コメントも出さなかった[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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