井口阿くり
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いのくち あくり井口 阿くり
明治45年(1912年)以前の撮影
生誕1871年1月12日
秋田県南秋田郡中亀町
死没 (1931-03-26) 1931年3月26日(60歳没)
国籍 日本
別名井口 あくり、井口 あぐり、藤田 阿くり
職業教育学者、体操家

井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日明治3年11月22日) - 1931年昭和6年)3月26日)(通名:井口 あくり)は、日本教育学者、体操家。

秋田県秋田市南通亀の町出身。アメリカ留学後女子高等師範学校日本体育会体操学校の教授を勤め、学校体育にスウェーデン体操を導入した。女子体育の先駆者で[1]「日本女子体育の母」と呼ばれる。1911年(明治44年)藤田積造と結婚し藤田姓となる。目次

1 来歴

1.1 生い立ちと学生時代

1.2 欧化主義から良妻賢母へ

1.3 教師生活と海外留学

1.4 阿くりの体育論

1.5 学校体育の情勢と日露戦争

1.6 阿くりの著書

1.7 女高師退職とその後


2 脚注

3 参考文献

4 関連書籍

5 関連文献

6 関連する作品

7 外部リンク

来歴
生い立ちと学生時代

1870年1月12日(明治3年11月22日)、秋田久保田城下亀ノ町廓に住む父井口糺(タダス)、母ミヱの間に9人兄弟の四女として出生[2]。糺は戊辰戦争において久保田藩勤王に導いた傑士で、大正天皇即位のおり従五位を追贈されている[3]。出生名は「アグリ」といい、男児が欲しかったのに女児が生まれた際に「アグリ」と名付けると、次の子は男児が生まれるという迷信に従ったものであった[4]。阿くり本人はアグリという響きが英語のugly(醜い)に似ていることから嫌っていた[4]

阿くりは8歳から田中町(現秋田市大町三丁目の一部)にあった田中女学校、もしくは隣接していた児玉女学院に通い、11歳ごろに秋田女子師範学校に入学したと考えられる[5]。1884年(明治17年)15歳で同校中等師範科を卒業して、田中町の母校に勤務した[6][7]。1885年(明治18年)9月秋田女子師範学校は高等師範科を新設。翌年3月には中等師範科を改組の上で高等師範科に統合し、女子教員養成部と改称して秋田師範学校と合併した。阿くりは同年5月秋田師範学校女子教員養成部高等師範科に入学する[8][9]。15歳で卒業した師範学校に17歳で再入学したことになる。

1888年(明治21年)3月、秋田県尋常師範学校尋常師範科第二年級を修了すると、同級生の茂木チヱと共に秋田県知事から特撰生として推薦され、高等師範学校女子部に無試験で入学を許される[10][11]。阿くりはチヱとともに勉学に勤しみ、首席次席を分け合っていたと伝えられる[12]。二人の在学中、高等師範学校女子部は高等師範学校から分離し女子高等師範学校となった。また1891年(明治24年)阿くりは井口“阿久利”に改名した。秋田市役所が3月2日付けで願済字違訂正(戸籍に記載されている間違った内容を訂正する処理)を行っている[13]。1892年(明治25年)、卒業にあたっては阿くりが女子高等師範学校附属小学校訓導、茂木チヱが秋田県尋常師範学校助教諭兼訓導として赴任することが決まる。阿くりは翌年には女子高等師範学校附属高等女学校助教諭となる。
欧化主義から良妻賢母へ

師範学校に再入学した1886年(明治19年)から、女子高等師範学校附属高等女学校の助教諭となる1893年(明治26年)までに、学校教育をめぐる情勢は大きく変化した。勤王士族の娘として教育を通じて国に奉職する道を選んだ阿くりは、自分より7、8歳若い女生徒に自分が受けたものとは異なった教育を授けることになる。

1885年(明治18年)12月22日、第1次伊藤内閣が組閣され初代文部大臣には森有礼が就任した。森は列強に伍する国民国家形成のため教育制度改革を矢継ぎ早に実施し、帝国大学を頂点とする階級的な学校制度を確立。


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