井口村_(広島県)
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いのくちむら
井口村
廃止日1956年11月1日
廃止理由編入合併
井口村 → 広島市
現在の自治体広島市
廃止時点のデータ
日本
地方中国地方山陽地方
中国・四国地方
都道府県広島県
郡佐伯郡
面積2.98km2
総人口1,817人
(1956年)
隣接自治体広島市・五日市町
井口村役場
所在地広島県佐伯郡井口村(現・井口二丁目
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画像外部リンク
広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。
[絵葉書](瀬戸内海安芸井ノ口海岸) 小己斐明神社(井口明神社)の男明神(右)と女明神(左/現存せず)。当時の海岸線の近さが分かる。

井口村(いのくちむら)とは、かつて広島県佐伯郡に存在した村である。1956年(昭和31年)11月1日広島市編入合併されたため消滅した。目次

1 地理

2 歴史

2.1 村名の由来

2.2 中世

2.3 近世

2.4 近代


3 沿革

4 大字

5 交通(1956年11月時点)

5.1 国道

5.2 鉄道


6 各種施設・企業(1956年11月時点)

6.1 公共機関

6.2 学校


7 産業

8 合併後の状況

9 関連書籍

10 関連項目

地理

旧井口村域は現在の広島市
西区井口鈴が峰町に相当する。

鈴が峰南麓に位置し、南は広島湾に面していた。東は広島市(現在の西区草津地区および古江地区)、西は八幡川をはさんで五日市町(現在の佐伯区)に隣接していた。

広島市編入時まで、八幡川河口西側の新開地(現・井口五丁目)を除くと、国道2号の先まで海岸線が迫っていた(井口明神などの町域は編入後、1970年代以降の埋立地である)。

歴史
村名の由来

「井口」は戦国時代以来の古い地名である。当時は広島湾に突き出す半島であった鈴ヶ峰が「猪の口」の形に似ていたことに由来するという説、隣接する古江の入り口すなわち「江の口」が転じたという説がある。
中世

戦国期の井口は近隣の己斐草津古江・山田などと同様、厳島神社の所領地であった。この時期、村の西側の八幡川河口東岸一帯は「阿瀬波村」(あせばむら)と呼ばれ、井口とは別の村であった(近世になり井口村に統合された)。
近世

江戸時代の井口村は沿岸部を山陽道西国街道)が通り、村の東端には古江村(のち佐伯郡古田村、現・西区)から続く町屋が並んでいた。街道の難所と呼ばれた村内の小己斐峠(井口峠・長崎峠とも)には一里塚が置かれたが、旅人はこの峠を避け干潮時に海岸の干潟を通ったといわれる。1791年寛政3年)、先述の阿瀬波の沖合に己斐村の村民が新開地を造成し、新開の守護神として己斐の旭山神社の分身を祀り「小己斐明神」(井口明神)と称した。この時期の井口の産業は『芸藩通志』によれば半農半漁であった。
近代

廃藩置県により広島県が発足した1871年明治4年)、井口海岸を埋め立て廿日市に至る新道が建設され、小己斐峠越えの難所が解消された。1889年には町村制発足により佐伯郡井口村が設置され、1924年大正13年)には国鉄山陽本線と並行する広島瓦斯電軌(広島電鉄の前身)宮島線が開通し、井口駅が開業した。昭和戦前期には村民の約5割の戸数が農家であり米・麦の他はモモ・ビワなどの園芸農業が活発、漁業従事者は減少しており、海外への出稼ぎ移民も盛んであった。1939年には現在の広島修道大学附属鈴峯女子中学校・高等学校の前身である広島商業実践女学校が広島電鉄により設立・開校された。そして1956年11月1日の広島市への編入合併に至る。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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