井伏鱒二
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井伏 鱒二
(いぶせ ますじ)
1952年の井伏 鱒二
誕生井伏 滿壽二(いぶし ますじ)
1898年2月15日
日本広島県安那郡加茂村
(現福山市
死没 (1993-07-10) 1993年7月10日(95歳没)
日本東京都杉並区
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学仏文科中退
活動期間1923年 - 1993年
ジャンル小説随筆
文学活動新興芸術派
代表作『山椒魚』(1929年)
『屋根の上のサワン』(1929年)
ジョン万次郎漂流記』(1937年)
『さざなみ軍記』(1938年)
『多甚古村』(1939年)
本日休診』(1950年)
駅前旅館』(1957年)
黒い雨』(1966年)
『荻窪風土記』(1982年)
主な受賞歴直木三十五賞(1938年)
読売文学賞(1950年・1972年)
日本芸術院賞(1956年)
文化勲章(1966年)
野間文芸賞(1966年)
デビュー作『幽閉』(1923年)
親族郁太(父)
ミヤ(母)
民左衛門(祖父)
文夫(兄)
泉(姉)
圭三(弟)
節代(妻)
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井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年明治31年〉2月15日 - 1993年平成5年〉7月10日)は、日本小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身[1]筆名釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民名誉都民
来歴

1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ士居(土地の言葉でナカンデエ)」の屋号をもつ代々の地主である[2]。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。

1905年、加茂小学校入学。この年の夏に祖父と訪れた鞆ノ津(鞆の浦)で初めて海を見て、一尺くらいある黒鯛を釣り上げた[3]

1912年、旧制広島県立福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)に進学した。同校の庭には池があり、2匹の山椒魚が飼われていて[4]、これがのちに処女作として発表され、世に知られることとなる「山椒魚」に結びついた。作文は得意だったが成績はあまり振るわず、中学3年のころから画家を志し、卒業すると3か月間奈良京都を写生旅行。そのとき泊まった宿の主人が偶然橋本関雪の知り合いと聞き、スケッチを託して橋本関雪に入門を申し込んだが断られ、やむなく帰郷する。

後に、同人誌に投稿などをしていた文学好きの兄からたびたび勧められていたこともあり、井伏は文学に転向することを決意、1917年9月、早稲田大学予科に入学、1919年4月、文学部仏文学科に進学する[5]。そこで同じ学科の青木南八と親交を深める一方、文壇で名を成していた岩野泡鳴谷崎精二らのもとを積極的に訪ねるようになる。しかし1921年、三回生の時、井伏は担当の片上伸教授と「衝突[注 1]」し、やむなく休学し帰郷、母と兄の配慮により中学時代の恩師を人伝に仲介を受け、御調郡(旧・因島市、現・尾道市因島三庄町千守の土井医院[注 2]2階へ逗留することとなった[6][7][8][9]

約半年後に帰京、復学の申請をするが、同教授が反対したためかなわず、やむなく中退となった。さらにこの年、無二の親友だった青木南八が自殺するに及んで、井伏は日本美術学校も中退してしまう。

1923年、同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表。後に加筆して『山椒魚』と改題[10]。翌年、聚芳社に入社するが、退社と再入社を繰り返した後、佐藤春夫に師事するようになる。

1924年、親友を頼って山口県柳井市に滞在。後になって、当時お露という名前の柳井高等女学校の生徒への切ない恋を告白した書簡が見つかっている[11]

1927年、「歪なる図案」を『不同調』誌に発表、初めて小説で原稿料を得たが、なかなか芽が出ず、文藝春秋の女性誌『婦人サロン』に、同人誌仲間の中村正常中村メイコの父)と組んで、「ペソコ」と「ユマ吉」というモガモボを主人公にしたナンセンス読み物を書き始める。同年10月、遠縁の娘、秋元節代(当時15歳)と結婚する。この時期より荻窪に在住、やがて阿佐ヶ谷文士村が出来ていき中心人物となった。

1929年梶井基次郎の「ある崖上の感情」の影響を受けた「朽助のいる谷間」を『創作月刊』誌に[12][13][14]、「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』誌に、「屋根の上のサワン」を『文学』に発表する。この後『山椒魚』は早稲田在学中にやっていた回覧雑誌「にはいり」に『山椒魚の嘆き』として載ったとされる。さらに1940年(昭和15年)には「セイガク二年生」にも連載された。井伏は60数年にわたってこの作品『山椒魚』を改稿し続けた[15]

1930年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版する。この年は小林秀雄らが出していた雑誌『作品』の同人となり、太宰治とはじめて会ったりしている。

1931年4月29日、井伏は林芙美子と瀬戸内の因島に渡り、三ノ庄(みつのしょう)の土井浦二宅を訪れて、同家の跡取り息子の展墓を果たす。かつて早稲田を休学して憂悶の日々を送った折に、当地で止宿先を提供してくれた土井医院の長男春二がこの年2月、日本医科大学在学中に病没したためである[注 3]


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