凡例井伊 直政
時代戦国時代後期から安土桃山時代
生誕永禄4年2月19日(1561年3月4日)
死没慶長7年2月1日(1602年3月24日)
改名井伊虎松 → 松下虎松 → 井伊万千代(幼名) → 直政
別名井伊の赤鬼、人斬り兵部(渾名)[注釈 1]
戒名祥壽院殿清凉泰安大居士
墓所滋賀県彦根市 祥壽山清凉寺
井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第20代当主[注釈 4]。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国彦根藩の初代藩主。
徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。 永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として[2]、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷)近くの祝田(ほうだ・現在の浜松市浜名区細江町中川)で生まれる。母は奥山朝利の娘・ひよ[注釈 5]。幼名は虎松。井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(虎松の父・直親の従兄で養父)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父・直親は、虎松の生まれた翌年の永禄5年(1562年)、謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺された。当時、虎松はわずか2歳であったため、直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった[注釈 3]。 虎松も今川氏に命を狙われたが、新野親矩が助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよとともに暮らす。しかし永禄7年(1564年)に親矩が討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人・祐椿尼[注釈 6]とひよが養育したともいうが、永禄11年(1568年)、甲斐国の武田氏が今川氏を攻めようとした際、井伊家家老の小野道好が今川氏からの命令として、虎松を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入れた。徳川四天王井伊直政公出世之地碑(静岡県浜松市浜名区引佐町 龍潭寺) 天正2年(1574年)、虎松が父・直親の13回忌のために龍潭寺に来たとき、祐椿尼、直虎、ひよ、龍潭寺住職・南渓瑞聞[注釈 7]が相談し、徳川家康に仕えさせようとする。まずは虎松を鳳来寺に帰さないために、ひよが徳川氏家臣の松下清景に再嫁し、虎松を松下氏の養子にしたという(『井伊家伝記』)。天正3年(1575年)、家康に見出され、井伊氏に復することを許された虎松は、名を井伊万千代と改めた[4]。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた[4]。 万千代は、高天神城の戦いの攻略をはじめとする武田氏との戦いで戦功を立てた。 天正10年(1582年)、22歳で元服し直政と名乗る。同年の本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数含めた一部隊を編成することとなり、旗本先手役の侍大将になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。天正10年8月までに「兵部少輔」と改称する(「兵部大輔」とあるのは誤記)[注釈 8]。 天正11年1月11日、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えをまとって兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた[注釈 9]。 同年2月27日付で修理大夫に任官された(ただし実際は天正14年5月から6月に任官されたものが日付をさかのぼって口宣案が発給された)[6]。また、実際には修理大夫を称していないため、一旦任官された後、辞退した可能性が指摘されている[7]。
生涯
家康の家臣になるまで
安土桃山時代