井伊直弼
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例井伊 直弼
「井伊直弼像」 狩野永岳筆 彦根城博物館蔵 万延元年(1860年)
時代江戸時代後期 - 末期
生誕文化12年10月29日1815年11月29日
死没安政7年3月3日1860年3月24日)(44歳没)
改名鉄之介→鉄三郎(幼名)→ 直弼
別名雅号:埋木舎、柳王舎、宗観
渾名:井伊の赤鬼
戒名宗観院柳暁覚翁
墓所豪徳寺東京都世田谷区
官位従四位下侍従玄蕃頭左近衛権少将掃部頭、左近衛権中将、従四位上正四位上
幕府江戸幕府大老
主君徳川家慶家定家茂
藩近江彦根藩
氏族井伊氏
父母父?井伊直中、母?お富の方
養父?井伊直亮
兄弟直清?姫直亮中顕中川久教内藤政成松平勝権新野親良直元内藤政優、直弼、内藤政義
昌子松平信豪女)
千田静江(千田高品の養女、秋山正家の娘)、西村里和(西村本慶の娘)
直憲直咸直安直達弥千代松平頼聰室)、待子(青山幸宜室)
テンプレートを表示

井伊 直弼(いい なおすけ)は、江戸時代後期から幕末譜代大名近江彦根藩の第16代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として[1]日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した[2]。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

幼名は鉄之介(てつのすけ)、後に鉄三郎(てつさぶろう)。は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎(みどりのや[3])、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異体字:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。
生涯
家督相続まで生誕地(彦根城二の丸槻御殿)

文化12年(1815年)10月29日、第14代藩主・井伊直中の十四男として[4]近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)の彦根城二の丸の槻御殿で生まれる。母は側室の君田富(お富の方)。父の隠居後に生まれた庶子であった。

父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごした[注釈 1]

この間、近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野義言と師弟関係を結んで国学を学んだ。また、熱心に茶道石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌、兵学、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していた(後述)。また、このころ村山たかと出会い共に逢瀬を重ねた。

弘化3年(1846年)、第15代藩主・井伊直亮(直中三男)の養嗣子となっていた直元(直中十一男)が死去したため、江戸に召喚され、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。

以降、世子として江戸に住まい、直亮の在国時は代わって江戸城溜間に出仕したり、他大名家と交流を持つなどの活動を行っている。後年の将軍継嗣問題における直弼の行動指針となった家格や血筋を重視する姿勢は、この頃に培われたとされる[6]

嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで藩主となる。
彦根藩主

藩主となった直弼は人事の刷新に着手した。国元にいた直亮の側役3名を直亮の病状[注釈 2]を自分に報せなかったことを理由に罷免あるいは役替とし[7]、筆頭家老・木俣守易を職務怠慢を理由に罷免し隠居謹慎処分とした[8]。彼らの後任には新野親良など、長野義言の門人や部屋住み・世嗣時代からの側近など直弼に近い人物が充てられた。

嘉永3年(1851年)12月2日、直弼は家中に向けて8箇条の書付を出した。その中で直弼は、藩主・藩士・領民の一和を説いて藩士には積極的な意見の上申を奨励し、有意な上申や職務に精励する藩士には褒賞・人材登用の道を示して家中の意識向上を図り、そうした人材を育成するための藩校や家族の役割を重視する姿勢を示した[9]

また同日、亡兄・直亮の遺命であると称して藩金15万両[注釈 3]を士民に分配した[10]。これは、父・直中が家督相続した際の前例に倣ったもので、直亮の遺命としたのは士民に評判の悪かった彼の悪名を払拭し直弼の治世の始まりを宣言する狙いがあったとされている[11]

嘉永4年(1851年)6月11日、直弼は藩主として彦根に初入部した。帰国した直弼は9月15日からの5日間、愛知郡神崎郡の村々を巡見した。以降、領内巡見は直弼在国時の恒例となり、安政4年(1857年)までに9回行われ領内のほぼ全域を見分している[12]

嘉永5年(1852年)、丹波亀山藩主・松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を娶った。この年の4月、長野義言を彦根藩士として召し抱える[13]。以降、長野は直弼の側近として活動し、また藩の重役の多くが彼の門人によって占められるようになる[14]
幕政への関与

嘉永6年(1853年)6月8日、帰国したばかりの彦根で黒船来航の一報を受けた直弼は7月24日に江戸へ出府した。これに先立つ6月26日、老中首座の阿部正弘は、アメリカ合衆国の国書の写しを溜詰・溜詰格の大名に示し、アメリカの要求に対する対策を諮問してきた。直弼は8月10日に提出した意見書で「天主の邪教を防ぐという国益がある」と鎖国の継続を主張していたが、8月29日に提出した2通目の意見書では一転して現状での鎖国の維持は無謀とし、積極的な交易と開国を主張している[15]。ただし、この意見書の後半には「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記してあり[16]、このため直弼は元々は鎖国論者であり、彼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述)。

阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩藩主(徳川斉昭松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:98 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef