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凡例井伊直定
時代江戸時代中期
生誕元禄13年2月13日(1700年4月2日)
死没宝暦10年2月8日(1760年3月24日)
改名又五郎(幼名)、直定
戒名天祥院殿泰山定公大居士
官位従五位下因幡守、従四位下侍従
従四位上少将・掃部頭、中将
主殿頭、掃部頭、大監物
幕府江戸幕府奏者番
藩近江彦根藩主
氏族井伊氏
父母父:井伊直該、母:平石氏
養父:井伊直惟
兄弟直通、直恒、直矩、直惟、直定
子直賢
井伊 直定(いい なおさだ)は、江戸時代中期の大名。近江彦根新田藩初代藩主、のち近江彦根藩第9代および第11代藩主(10代藩主および12代藩主、8代当主という数え方もある→参照 彦根藩)。 第4代藩主井伊直興の14男。母は平石氏。早世が多い直興の息子のうちでは最も長命であった。正徳3年(1713年)に従五位下因幡守を叙任され、彦根新田藩1万石を分知された。しかし享保19年(1734年)、異母兄・直惟の要請により養子となり、新田藩を本家に還付し、翌享保20年(1735年)に直惟の隠居と共に正式に彦根藩を継いだ。 質素倹約を旨とし、奏者番を務めていたことから率先して規律を守り実践していた。江戸城中でも握り飯の弁当を持参していた。 兄達に似て病弱であったため隠居を決めたが、実子直賢
生涯
再び宝暦5年(1755年)、直≠フ弟・直幸を養子として隠居、宝暦10年(1760年)に死去した。享年61。法名は天祥院殿泰山定公大居士。遺骸は彦根の清涼寺に葬られた。 酔った家臣を望遠鏡で見つけ、傍にいた家臣にも見せたが、誰もが告げ口を避けるために酔った家臣の名を明かさず、景色を褒めるばかりであった。ただ一人だけ、得意げに酔った家臣の名前を報告した者がいたが、直定は後で「(報告した家臣は)余の傍に置く人材ではないな」と不快を示した。自身の立身出世のために同僚を売るような行為を卑しんだとされる。
エピソード
表
話
編
歴
井伊氏彦根新田藩藩主 (1714年 - 1734年)
井伊直定1714-1734
所領を本家彦根藩に還付し、廃藩
表
話
編
歴
彦根藩9、11代藩主 (1735年 - 1754年、1754年 - 1755年)
佐和山藩
井伊直政1600-1602
※井伊直継1602-1606
藩庁移転、彦根藩に
彦根藩
※井伊直継1606-1615
井伊直孝1615-1659
井伊直澄1659-1676
井伊直興1676-1701
井伊直通1701-1710
井伊直恒1710
井伊直該(直興)1710-1714
井伊直惟1714-1735
井伊直定1735-1754
井伊直1754
井伊直定1754-1755
井伊直幸1755-1789
井伊直中1789-1812
井伊直亮1812-1850
井伊直弼1846-1860
井伊直憲1860-1871
廃藩置県
※通例では代数に含まれない。
『新修彦根市史2巻 通史編近世』(2008年)66頁では、井伊直継を2代藩主としている。彦根城博物館では、通例にしたがって直継を数えないが、「当主」という表現を使っている(例;井伊直弼 13代当主)。
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更新日時:2020年7月19日(日)04:11
取得日時:2020/08/11 03:44