凡例井伊 直孝
時代江戸時代前期
生誕天正18年2月11日(1590年3月16日)
死没万治2年6月28日(1659年8月16日)
改名弁之介(幼名)→直孝
別名通称:掃部頭
戒名久昌院殿豪徳天英大居士
墓所東京都世田谷区大溪山豪徳寺
官位従五位下掃部助、従四位下侍従、正四位上左近衛中将、贈従三位[1]
幕府江戸幕府書院番頭→大番頭→伏見城番役→大老(大政参与)
主君徳川秀忠→家光→家綱[2]
藩上野白井藩主→近江彦根藩主
氏族井伊氏
父母父:井伊直政、母:養賢院(印具道重
井伊 直孝(いい なおたか)は、江戸時代前期の武将・譜代大名。上野国白井藩主、近江国彦根藩3代藩主。 異母兄・直勝と同じ天正18年(1590年)、井伊直政の次男として駿河国中里(焼津市)で誕生[3]。直孝の生母とされる印具道重の娘・養賢院(諸説あり)は直政の正室・唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説があり、正室に遠慮した直政が初めて直孝と対面したのは慶長6年(1601年)であったとされる。幼少期は井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ、そこで養育された。 慶長7年(1602年)の直政の死後は江戸にあって徳川秀忠の近習として仕え、秀忠が2代将軍に就任した慶長10年(1605年)4月26日に従五位下掃部助に叙位・任官[4]。慶長13年(1608年)に書院番頭となり上野刈宿5,000石を与えられ、次いで慶長15年(1608年)には上野白井藩1万石の大名となり、同時に大番頭に任じられた。慶長18年(1613年)には伏見城番役となった。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では、家康に井伊家の大将に指名された。大坂城攻略では松平忠直と共に八丁目口の攻略を任せられたが、同じ赤備えの真田信繁勢の挑発に乗り突撃したところを敵の策にはまってしまい信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出す大被害を生じさせた(真田丸の戦い)。後に先走って突撃したことを軍令違反と咎められたが、家康が「味方を奮い立たせた」と庇ったため処罰はされなかった。 井伊家では直政の死後、家督を兄・直勝が継いでいたが、直勝は家臣団をまとめ切れず、それを憂慮した家康の裁定によって慶長20年(1615年)、直孝は井伊家の家督を継ぐよう命じられ父の遺領18万石の内、彦根藩15万石を継承し、直勝には上野安中藩3万石が分知された。
生涯
家督相続前
大坂の陣