「井上薫」とは別人です。
日本の政治家井上 馨いのうえ かおる
生年月日1836年1月16日
(天保6年11月28日)
出生地 日本 周防国吉敷郡湯田村
(現:山口市湯田温泉二丁目)
没年月日 (1915-09-01) 1915年9月1日(79歳没)
死没地 日本 静岡県庵原郡袖師町
(現:静岡市清水区)
出身校明倫館
前職武士(長州藩士)
称号従一位
大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
勲一等旭日桐花大綬章
侯爵
配偶者名不詳(前妻)
井上武子(後妻)
子女志道芳子
藤田聞子
井上千代子
親族井上光茂
井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日 〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家[3]。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。
太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた[3]。
本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた[4])に改名した。諱は惟精(これきよ)。雅号は世外(せがい)。 長州藩・井上光亨
生涯
生い立ち
同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤博文と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを務め江戸へ再下向した[5][6][7][8]。
長州藩士時代長州五傑の井上馨(下左)
江戸遊学中の文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴。同年11月に攘夷計画がもれて定広の命令で数日間謹慎したにもかかわらず、御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らとともに12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。
翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の1人としてイギリスへ密航し、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。