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凡例井上正岑
時代江戸時代前期 - 中期
生誕承応2年(1653年)
死没享保7年5月17日(1722年6月30日)
官位従四位下・大和守、侍従、河内守
幕府江戸幕府奏者番、寺社奉行、若年寄、老中
主君徳川綱吉→家宣→家継→吉宗
藩美濃八幡藩主→丹波亀山藩主→常陸下館藩主→常陸笠間藩主
氏族井上氏
父母父:井上正任、母:本多忠義の娘
兄弟正幸、正岑、正長、金森頼業正室、酒井重英、正照、貞照院、丹羽氏音正室ら
妻松平頼純の娘・清姫
子養子:正富、正之、水野忠輝正室
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井上 正岑(いのうえ まさみね)は、江戸時代前期から中期にかけての大名、老中。美濃国八幡藩の第2代藩主、丹波国亀山藩主、常陸国下館藩主、常陸笠間藩主。官位は従四位下・大和守、侍従、河内守。浜松藩井上家4代。 美濃八幡藩初代藩主・井上正任の次男として誕生した。元禄2年(1689年)、兄・正幸の廃嫡により嫡子となる。元禄5年(1692年)に家督を相続した。このとき弟の正長に3千石を分与した。 元禄8年12月(1696年)、奏者番、翌元禄9年(1696年)10月には寺社奉行も兼ねた。元禄10年(1697年)6月10日、丹波亀山に転封。元禄12年(1699年)10月に若年寄。元禄15年(1702年)9月、3千石加増の上で常陸下館へ転封となったが、城が手狭であったため即日常陸笠間に移った。宝永2年(1705年)に老中となり、同年12月には従四位に昇任、翌宝永3年12月に侍従となった。正徳5年(1715年)東照宮百回忌の法要総奉行を務めた。享保3年(1718年)1万石加増。 享保7年(1722年)5月17日に70歳で死去した。先に迎えた養子の正富は廃嫡され、正之が跡を継いだ。 幕府政治家として奏者番、寺社奉行、若年寄、老中を歴任したが、新井白石の『折りたく柴の記』によると底意地の悪い性格の人物と指摘されている。また、「死んでも惜しくないもの 鼠捕らぬ猫と井上河内守」という出所不明の落書が江戸中に張られたこともある。 妻の清姫が紀州藩2代藩主の徳川光貞の姪にあたるため、光貞の四男であった吉宗が8代将軍に就任した理由の一つに、幕閣の重鎮であった正岑の後押しがあったためといわれている。7代将軍徳川家継が病床の際、他の老中たちが尾張藩主徳川継友の将軍擁立に動いたのに対し、正岑は妻の縁戚(従兄弟)にあたる吉宗擁立を主張したとされる。 正室
生涯
人物
年譜
1653年(承応2年) 生誕
1691年(元禄4年) 清姫と婚姻
1693年(元禄6年) 美濃八幡藩襲封
1696年(元禄9年) 寺社奉行
1697年(元禄10年) 丹波亀山藩に転封
1699年(元禄12年) 若年寄
1702年(元禄15年) 常陸下館藩を経て、常陸笠間藩へ転封。1万石加増。
1705年(宝永2年) 老中
1722年(享保7年) 死去
系譜
清姫 ー 松平頼純の娘
水野忠輝正室 ー 井上可安
表
話
編
歴
井上家郡上藩(八幡藩)2代藩主 (1693年 - 1697年)
遠藤家
遠藤慶隆1600-1632
遠藤慶利1632-1646
遠藤常友1646-1676
遠藤常春1676-1689
遠藤常久1689-1693
無嗣改易、将軍綱吉の側室お伝の方の甥が遠藤家を継承、近江三上藩で家名存続
井上家
井上正任1692-1693
井上正岑1693-1697
丹波亀山藩に転封
金森家
金森頼?1697-1736
金森頼錦1736-1758
藩政の失敗により、改易
青山家
青山幸道1758-1775
青山幸完1775-1808
青山幸孝1808-1815