井上弘昭
[Wikipedia|▼Menu]

井上 弘昭基本情報
国籍
日本
出身地大阪府大阪市西淀川区
生年月日 (1944-05-21) 1944年5月21日(77歳)
身長
体重176 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手外野手
プロ入り1967年 ドラフト1位
初出場1968年8月1日
最終出場1985年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


北陽高等学校

電電近畿

広島東洋カープ (1968 - 1972)

中日ドラゴンズ (1973 - 1980)

日本ハムファイターズ (1981 - 1984)

西武ライオンズ (1985)

コーチ歴


西武ライオンズ (1985)

中日ドラゴンズ (1992 - 1994)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

井上 弘昭(いのうえ ひろあき、1944年5月21日 - )は、大阪府大阪市西淀川区出身の元プロ野球選手内野手外野手)。現在は中日スポーツ野球評論家目次

1 経歴

2 詳細情報

2.1 年度別打撃成績

2.2 タイトル

2.3 表彰

2.4 記録

2.5 背番号


3 脚注

4 関連項目

5 外部リンク

経歴

北陽高校から電電近畿に進む。1965年第36回都市対抗野球大会では、八幡製鉄との準決勝で3点本塁打を放つなど活躍。決勝では小弓場保日本生命から補強)の好投もあって住友金属に完封勝利、初優勝を飾った。この時のチームメートに浜口春好がいた。直後の全日本チーム中南米遠征に小弓場、浜口とともに参加。その後も都市対抗野球に連続出場を続け活躍する。1966年にはアマチュア野球世界選手権日本代表に選出され日本の優勝に貢献、また社会人ベストナイン(外野手)に選出された。

1967年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。即戦力として期待されるも1年目の1968年は8試合の先発出場にとどまる。翌1969年には一軍に定着し、8月から主に左翼手、一番打者として起用される。1970年には水谷実雄が左翼手として起用された事により三塁手に回り、99試合に先発出場を果たす。しかし1972年には打撃不振もあってレギュラーの座を外れ、出場機会も減少。

1973年川畑和人との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。中日では持ち前の勝負強い打撃でレギュラーに定着する。1974年には左翼手としてクリーンアップを打ち活躍、初めて規定打席(11位、打率.290)に到達しリーグ優勝に貢献した。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは全6戦に三番打者として出場するが、23打数4安打2打点と真価を発揮できなかった。

1975年には、元同僚の山本浩二首位打者を争う[1]。僅差で2位に迫っていた10月19日の対広島最終戦では、広島バッテリー(永本裕章投手と道原博幸捕手)から、プロ野球公式戦史上初の「満塁敬遠」を受ける[2](山本はこの試合を欠場していた)。2日後の10月21日のシーズン最終戦で安打を打てば逆転で首位打者になれたが、最終打席で内角への際どい投球を死球と判定され、本人は必死で「当たっていない」と主張したが、判定は覆らず[3]、惜しくもタイトル獲得はならなかった[4]。同年セ・リーグベストナイン(外野手)を受賞。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef