井上 哲次郎
人物情報
生誕 (1856-02-01) 1856年2月1日
(安政2年12月25日)
筑前国御笠郡太宰府
(現・福岡県太宰府市)
死没 (1944-12-07) 1944年12月7日(88歳没)
東京都小石川区表町
(現・文京区小石川)
国籍 日本
出身校東京大学文学部
学問
研究分野哲学
研究機関東京帝国大学文科大学
大東文化学院
学位文学博士(日本・1891年)
称号東京帝国大学名誉教授(1923年)
特筆すべき概念現象即実在論
主要な作品『哲学字彙』(共編・1881年)
『新体詩抄』(共編・1882年)
『教育ト宗教ノ衝突』(1893年)
『日本陽明学派之哲学』(1900年)
『国民道徳概論』(1912年)
学会帝国学士院
哲学会
国際仏教協会
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日本の政治家井上 哲次郎
貴族院議員
選挙区(帝国学士院会員議員)
在任期間1925年10月10日 - 1926年11月16日[1]
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井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政2年12月25日) - 1944年(昭和19年)12月7日)は、明治時代の日本の哲学者・詩人。号は巽軒(そんけん)。通称「井の哲(イノテツ)」[2]。
西洋哲学を日本に紹介し、東京大学で日本人初の哲学の教授となった。また東洋哲学研究の開拓者でもあり[3][4]、保守派・体制派のイデオローグでもあり、新体詩運動の先駆者でもある。大東文化学院第2代総長、貴族院議員なども務めた。 旧姓・船越。筑前太宰府(現在の福岡県太宰府市)に医師船越俊達の三男として生まれる。少年時代、地元の儒者に四書五経を学ぶ[5]。明治元年、博多に出て英語を学び、1871年に長崎の英学塾広運館に入学。1875年、東京開成学校に入学。 1877年、東京大学に入学、哲学及び政治学を専攻。フェノロサ、中村正直、横山由清、原坦山らに学ぶ[5]。1880年、卒業(生徒総代として答辞を述べた)。文部省御用掛になり、「東洋哲学史」を編纂し始める。 1882年東京大学助教授。同年外山正一、矢田部良吉と『新体詩抄』を刊行。1884年ドイツに留学(ハイデルベルク大学及びライプツィヒ大学、ベルリン大学)[6]。テーヌ、ルナン、スペンサー、ミュラーらを訪問し[5]、とくにフィッシャー、エルトマン、ヴント、ツェラーに学ぶ[7]。1890年帰国、帝国大学文学部哲学科教授。1891年博士授与(森林太郎、北里柴三郎、仙石貢などを含め総員69名)。1895年、東京学士会院会員に任命された(のち帝国学士院会員)。1898年東京帝国大学文科大学学長。1923年退官、東洋大学教授。1924年10月から1925年11月まで、初代の貴族院帝国学士院会員議員を務めた。1925年には、大東文化学院総長(第2代)に就任した。 1927年、『我が国体と国民道徳』[8]で、「三種の神器のうち剣と鏡は失われており、残っているのは模造である」とした部分が、頭山満ら他の国家主義者から不敬だと批判され、発禁処分となって公職を辞職。 1944年、小石川の自宅にて没する[5]。自宅は太平洋戦争の空襲で焼失したが、書庫だった土蔵が史跡「井上哲次郎旧居跡」として現存する[9]。墓は雑司ヶ谷霊園にある[5]。 「形而上」(Metaphysical) などの漢訳語の考案者でもある。1881年初版の学術用語集『哲学字彙』では主編者を務めている[10]。 国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を主張した。キリスト教徒の内村鑑三が教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼しなかった不敬事件に際しては、キリスト教を激しく非難し、植村正久と論争した。また他にも、戦陣訓に関与するなど、体制側のイデオローグとして政府の道徳主義の思想界における切り込み隊長となった。しかしながら、国民道徳としての教育勅語には限界を覚え、世界道徳を説くに至り、現象即実在論を援用して、国民道徳と世界道徳との矛盾を解消しようとした。 外山正一、矢田部良吉と刊行した『新体詩抄』は、新体詩運動の先駆けとなった。
生涯
思想
詩
新体詩抄詳細は「新体詩抄」を参照
孝女白菊詩詳細は「孝女白菊の歌」を参照