井上勝
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いのうえ まさる
井上 勝
井上勝
生誕幼名:卯八(うはち)
通称:弥吉(やきち)
1843年8月25日
日本 長門国
(現:山口県萩市
死没 (1910-08-02) 1910年8月2日(66歳没)
イギリスロンドン
死因腎臓病
墓地東海寺大山墓地
記念碑銅像
東京駅丸の内側の駅前広場
萩駅前
国籍 日本
別名鉄道の父
出身校ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
職業公務員 → 会社経営者
時代江戸 - 明治
雇用者長州藩 → 明治政府
団体小岩井農場(創立者)
汽車製造合資会社(設立者)
著名な実績日本の鉄道の発展に貢献
肩書き大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正
工部権大丞
鉄道頭
鉄道庁長官など
配偶者宇佐子
子供養嗣子:井上勝純
息子:亥六
娘:卯女子
娘:千八重子
娘:辰子
親父:井上勝行
母:久里子
家族兄:井上勝一
弟:赤川雄三、湯浅光正
栄誉勲二等旭日重光章
勲一等瑞宝章
旭日大綬章
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井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日1843年8月25日〉 - 明治43年〈1910年8月2日)は、明治期の日本鉄道官僚[1]正二位勲一等子爵[2]。幼名は卯八(うはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。養親の姓を名乗り野村弥吉とも。
生涯
長州藩士時代

天保14年(1843年)、長州藩士・井上勝行(1807年 - 1893年)の3男として萩城下に生まれる。幼名は卯八と付けられたが、これは干支癸卯で8月生まれにちなんだためである。父は大身200の藩士で、母久里子は同じ長州藩士田坂家の出身ながら、弘化元年12月22日1845年1月29日)に1歳の卯八を残して没した。また後に父の家督を継承した兄の井上勝一(1831年 - 1886年)も、それぞれ他家に養子へ出された2弟の赤川雄三(1850年 - 1904年)と3弟の湯浅光正(? - 1870年)も、いずれも先に亡くしている[3][4]

嘉永元年(1848年)に野村作兵衛[5]の養嗣子となり野村弥吉と改名し藩校明倫館で勉強、開明派で蘭学重視の父に従い西洋学の習熟を志す。嘉永6年(1853年)の黒船来航に伴い長州藩が江戸幕府から相模警備を命じられると、安政2年(1855年)に沿岸警備に駆り出された父と共に宮田(現在の神奈川県横須賀市)へ赴任、そこで同藩の伊藤博文と出会い親交を結ぶ。翌3年(1856年)に萩へ戻り、同5年(1858年)に藩命で遊学した長崎で再会した伊藤と共に1年で洋学兵法を学び取ったがそれだけでは飽き足りなかった。帰郷から間もない安政6年(1859年)に藩に命じられ江戸に出て蕃書調所へ入学、航海術を中心に勉強したものの、まだ満足のいかなかった弥吉は万延元年(1860年)に船で箱館へ向かい、武田斐三郎の塾を訪れて航海術と英語の取得を目指した。ところが翌文久元年(1861年)に萩の養父に呼び戻され、郷里でも学問への意欲は尽きず、養父を説得して文久2年(1862年)に再び江戸に到着、英学修業のため横浜と江戸を往復しつつ外国留学を考えるようになっていった[要出典]。

1年経ち、ジャーディン・マセソン商会から長州藩が購入した癸亥丸の船長に任命され(文久3年(1863年3月10日)、測量方の山尾庸三らと共に横浜を出航して大阪・兵庫を経由して長州藩の三田尻港まで航行した。この時、京都にいた世子毛利元徳が帰藩のため癸亥丸に乗船予定であったが、操船に不安があったため、京都の長州藩邸の役人は庚申丸を選び、癸亥丸を随従させるという決定を下した。自らの操船に限界を感じた二人は、留学への思いを強めることになった[6]。帰藩した山尾と野村はただちに洋行留学の願いを出し、陸路で京都に向かった。

山尾・野村、および2人とは別に井上馨からの留学願を受けた周布政之助は、文久3年(1863年)4月3日、貿易商会伊豆倉商店の番頭・佐藤貞次郎(加賀藩との商用のため、山尾・野村の癸亥丸に乗船しており、3月20日頃兵庫で下船し、3月26日には上洛していた)を祇園の一力茶屋に招いて、この計画実現への助力を請い、承諾された[7]。4月18日には藩主の許可が下り、一人当たり200両、計600両が3人に与えられたが、藩内外には脱藩したことになった。4月28日に井上・野村は京都を発ち、5月6日に江戸に到着した。山尾は身分の違いからか別行動らしく、江戸に着いたのは5月1日とされる[8]

5月7日(6月22日)、駐日イギリス総領事エイベル・ガウワーを訪ね洋行の志を述べ、周旋を依頼する。ガウワーからは船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされる。江戸到着後さらに2人(伊藤博文遠藤謹助)増え、5人分つまり5000両が必要になった。洋行にあたって藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。

5月12日、ガウワーによる斡旋(あっせん)の下、5人はチェルスウィック号(ジャーディン・マセソン商会船籍)に乗り合わせて上海に渡る(この5人は後に長州五傑(「長州ファイブ」)と呼ばれることとなる)。上海でイギリスを目指す一行はイギリス建造の2隻の船に分かれ、山尾と遠藤、野村は900トン余りの客船ホワイト・アダー号(ロイド船級10A1[9])に旅客として身を預けた[注釈 1]。伊藤と井上は船員の扱いで帆船ペガサス号(525トン・同船級15A1[9])に乗り組むと130日の船旅を働いて過ごした[9]。ホワイト・アダー号は洋上の長旅を経た10月にロンドンに着岸、野村弥吉は明治元年(1868年)までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ運びとなる[要出典]。

年が明けた元治元年(1864年)、井上と伊藤は滞在1年で帰国、翌慶応元年(1865年)に薩摩藩第一次英国留学生と出会い日本人同士の交流を喜んだのもつかの間、藩支給の経費が少なくなり困窮は足かけ4年にわたった。遠藤は病気が悪化して慶応2年(1866年)に日本を目指し、残った野村は山尾とふたり、2年にわたって苦境に堪えると、明治元年9月、無事、UCL卒業を果たした。同年、木戸孝允の「母国で技術を役立てるように」との再三の要請により11月に山尾ともども帰国[要出典]。

長州藩へ戻ると養親の野村家を離れて実家に復籍し、野村から井上への改姓に重ねて父の名前から1字もらい「井上勝」と名乗ることとなった。長州藩から鉱山管理の仕事を任された井上は、明治2年(1869年)に木戸の呼びかけに応じ新政府に出仕、10月に大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正に取り立てられ[注釈 2]、先に大蔵省へ出仕していた伊藤の部下に配属され近代事業に携わることになる[10][11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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