井上光利
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例井上光利
時代戦国時代
生誕不詳
死没天文13年7月28日1544年8月16日
別名弥次郎(通称
主君毛利元就
氏族清和源氏頼季安芸井上氏
父母父:井上元兼
兄弟就兼就澄、光利
利宅

井上 光利(いのうえ みつとし)は、戦国時代武将毛利氏家臣。父は安芸井上氏当主・井上元兼。兄に井上就兼井上就澄
生涯

安芸井上氏当主・井上元兼の三男として生まれ、毛利元就に仕えた。

天文13年(1544年)7月、尼子晴久尼子国久とその子である誠久敬久を総大将として備後国に侵攻し三吉広高を攻めたため、元就は福原貞俊児玉就忠を大将とし、井上光利、粟屋元堅、粟屋元良、福原元勝、長屋吉親ら1000余を援軍として派遣。備後国の国人である上山広信もこれに加わった。しかし、同年7月28日、備後国双三郡布野において牛尾幸清や平野又右衛門らが率いる尼子軍と合戦するも大敗を喫する(布野崩れ)。この敗戦で福原貞俊と児玉就忠は重傷を負い、粟屋元堅、粟屋元良、福原元勝、長屋吉親、荘俊正、上山広信らは戦死。そして光利もこの戦いで壮烈な戦死を遂げた[1]

子の利宅が幼少ながら、光利の後を継いだ。
脚注^ 『毛利元就卿伝』p.126-129。

参考文献

三卿伝編纂所編、
渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』(マツノ書店1984年

萩藩閥閲録』巻125「井上弥兵衛」


更新日時:2018年9月3日(月)15:20
取得日時:2019/08/16 22:58


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:4502 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef