井上ひさし
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ペンネーム遅筆堂(ちひつどう)
服部 半蔵[† 1]
エンリコ・トリゾーニ[† 2]
誕生井上 廈(いのうえ ひさし)
(1934-11-16) 1934年11月16日
日本山形県東置賜郡川西町(山形県)
死没 (2010-04-09) 2010年4月9日(75歳没)[1]
日本神奈川県鎌倉市
職業小説家劇作家放送作家
国籍 日本
教育学士
最終学歴上智大学外国語学部フランス語学科
活動期間1964年 - 2010年
ジャンル小説戯曲随筆
代表作『ひょっこりひょうたん島』(1964年 - 1969年、人形劇)
『手鎖心中』(1972年)
藪原検校』(1973年、戯曲)
『新釈遠野物語』(1976年)
吉里吉里人』(1981年)
四千万歩の男』(1986年)
父と暮せば』(1994年、戯曲)
『東京セブンローズ』(1999年)
主な受賞歴岸田國士戯曲賞(1972年)
芸術選奨新人賞(1972年)
直木三十五賞(1972年)
読売文学賞(戯曲賞)(1980年)
日本SF大賞(1981年)
読売文学賞(小説賞)(1982年)
星雲賞(1982年)
吉川英治文学賞(1986年)
谷崎潤一郎賞(1991年)
菊池寛賞(1999年)
朝日賞(2001年)
毎日芸術賞(2003年)
鶴屋南北戯曲賞(2003年)
日本芸術院賞恩賜賞(2009年)
配偶者西舘代志子(1961年 - 1986年)
井上ユリ(米原ユリ)(1987年 - 2010年)
子供井上都(元こまつ座主宰)
井上綾(編集者[2]
石川麻矢(こまつ座社長)
親族井上マス(実母)
米原章三義祖父
米原昶岳父
米原万里義姉
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井上 ひさし(いのうえ ひさし、本名:井上 廈(読み同じ)、1934年昭和9年〉11月16日 - 2010年平成22年〉4月9日[1])は、日本小説家劇作家放送作家である。文化功労者日本芸術院会員

1961年から1986年までの本名は内山 廈(うちやま ひさし)[† 3]。遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもあった。

日本劇作家協会理事社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した(後述)。

先妻は西舘代志子。後妻のユリは元衆議院議員米原昶の娘。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢
来歴
幼少時代

1934年11月16日井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる[3][4]。修吉は実家が薬屋だったため薬剤師を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰したほか、1935年には小松滋の筆名で書いた小説『H丸傳奇』が『サンデー毎日』第17回大衆文芸新人賞に入賞している。プロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた[5]。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は非嫡出子(婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、『H丸傳奇』の舞台となった中国厦門(アモイ)に由来する[6]。5歳のとき父が脊髄カリエスで死亡。青年共産同盟(現在の日本民主青年同盟、通称・民青)に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた[5]。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や美容院経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症吃音症になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「神童」と言われていた。

母は一関市飯場を営んでいた義父の居場所を突き止め、会社から義父を追い出して自ら社長の座につき土建業「井上組」を立ち上げた。当時アイオン・カスリーン台風の被害により一関市内の復興需要に対し土建業を担っていた。その際井上自身は、現在の世嬉の一酒造の蔵を借りて運営していた新星映画館(現:一関シネプラザ)にて切符もぎりのバイトをしていた。しかし、井上組の経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。そこではカナダ修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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