歌川 貞秀(うたがわ さだひで、文化4年〈1807年〉- 明治12年〈1879年〉?[1][2])とは、江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。横浜絵や、鳥瞰図、合巻の挿絵を描いたことで知られる。初期の号は五雲亭(五雲亭貞秀)[2]。戯作名に大海舎金龍、丹頂庵鶴丸、松亭寿山などがある。また、浮世絵の手法による地図を橋本玉蘭斎と称して描いた[2]。五雲亭貞秀「横浜休日 阿蘭人遊行」文久元年(1861年) 初代歌川国貞(三代豊国)の門人[1]。本名は橋本兼次郎。名は兼。始めは五雲亭、後に玉蘭、玉蘭斎、玉蘭主人、一玉斎、玉翁などと号す。始めは歌川貞秀、後に橋本貞秀と号している。下総国布佐(現千葉県我孫子市)の生まれ。本所亀戸村亀戸天神前に居住した。安政末から文久の頃、横浜に移住したといわれ、元治慶応頃には深川御蔵前に住んでいる。 国貞に入門し、初筆は14歳のとき、文政9年(1826年)刊行の『彦山霊験記』(東里山人
来歴
天保(1830年-1844年)初期になると美人画、芝居絵の作品が増え、団扇絵や武者絵、風景画、肉筆画に、読本や草双紙、も手がける。『傾城水滸伝』でも、国貞や国安と天保6年(1835年)刊の十三編の挿絵を担当した。玩具絵「出世娘栄寿古録」(1843年から1847年の間)
空とぶ絵師・貞秀『横浜平沼橋ヨリ東海道神奈川台并カルイ沢茶店又遠ク大師河原ノ裏ヲ見ル』安政7年(1860年)頃
当時、入江であった現在の横浜駅一帯を描いたもの『横浜異人商館売場之図』文久元年(1861年)『大日本国郡名所 越後古志郡長岡』明治元年(1868年)
天保年間後半からは「日本八景づくし」や「大江戸十景」など、俯瞰構図を取る作品を描く。嘉永2年(1849年)の人気番付では、歌川国芳、歌川広重、二代目鳥居清満、二代目柳川重信、そして貞秀が幕内になっているが、その後慶応3年(1867年)のパリ万博に出品の際には歌川芳宗と共に浮世絵師の総代となっている[4]。
幕末期は美人画や役者絵の他、安政・文久年間に横浜絵、開化絵を多く残している。明治元年(1868年)の絵師番付「東京歳盛記」において、貞秀は第1位になっている。
貞秀の横浜絵は100点余りで、点数としては歌川芳虎、歌川芳員に次ぐが、細密な描写と画面構成が高く評価されている[要出典]。