五街道
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江戸から延びる五街道と他の街道

五街道(ごかいどう)は、江戸時代江戸日本橋を起点に伸びる東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。
五街道(ごかいどう)五街道の地図

1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、政治支配力を強めるために、道路制度の改革と整備に乗り出し、朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、道幅を広げて宿場を整備し、一里塚を設けるなどの街道の整備を着々と進め、砂利や砂を敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなどが行われた[1]

五街道として定められたのは、徳川幕府(江戸幕府)2代将軍の秀忠の代になってからのことで、1604年(慶長9年)に日本橋を五街道の起点として定め[2]、幕府安泰のために江戸を防衛することを目的として、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった[1]。秀忠は、政治的・軍事的に重要な五街道を幕府直轄とし、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いに並木を植えることを命じた[3]。街道は、東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備された。1659年万治2年)以降は新たに設置された道中奉行の管轄に置かれた。五街道の正式名称が定められたのは1716年享保元年)である[要出典]。

南北に架けられた日本橋からは南へ、東海道と甲州街道が重複し、現在の警視庁前桜田門交差点から分かれた[4]。日本橋から北へは、奥州街道・日光街道、中山道が重複して伸びて、浅草橋で奥州・日光街道と中山道とに分かれた[4]。奥州街道と日光街道の分岐点はさらに遠く北にあり、宇都宮で分かれた[4]。五街道の第一宿場である品川宿内藤新宿板橋宿千住宿は日本橋から2里(約8 km)以内の所にあり、「江戸四宿(えどしじゅく)」とよばれ江戸の玄関口となった[5]
東海道(東海道五十三次)
1624年寛永元年)完成。江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、京都・三条大橋までの五十三次(約500 km)。江戸幕府のある江戸から帝の座す京都までの始点から終点までの五十五地点を結ぶ道。延長部にあたる京街道 (大坂街道)の4宿も加えて、五十七次ともいう[6]
日光街道(日光道中)
1636年寛永13年)頃完成。日本橋から、千住、宇都宮、今市を経て、日光までの二十一次[6]
奥州街道(奥州道中)
1646年正保3年)完成。日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より陸奥・白河までの二十七次[6]。日本橋から宇都宮までの17宿は日光街道と重複する。函館に至る延長部あり。
中山道(中山道六十九次)
1694年元禄7年)完成。 中仙道とも表記する。江戸幕府のある日本橋から高崎、下諏訪、木曽路の妻籠を経て、草津までの六十七次。草津、大津の2宿を加えて帝の座す京都までの六十九次ともいう[6]
甲州街道(甲州道中)
1772年明和9年)完成。日本橋から、内藤新宿、八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する四十三次[6]

江戸時代の東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道を合わせた五街道の総延長は、幕末期の五街道の実態調査資料である『宿村大概帳』の集計から3792731(1493.5キロメートル)あったとされる[7]
宿駅制度中山道・奈良井宿(長野県塩尻市)

東海道をはじめとする五街道のすべてには、適当な間隔に宿場を置いて、各宿場に人足と荷駄用の馬(伝馬)を一定数常備し、幕府公用の役人の荷物運搬にあたらせた。各宿場には、幕府から幕府公用のための人馬提供を命じられたが、その見返りとして宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊や荷物逓送で生計を立てることが許された[8]。各街道の交通量に従って宿場に常備する人馬の数が定められており、例えば東海道では一宿場につき人足100人と馬100疋、中山道では人足50人・馬50疋、甲州街道では人足25人・馬25疋というように異なった[8]。これら人馬常備の負担は大きく、宿場関係者や沿道地元民を苦しめ、宿場の維持に苦労した[8]。江戸時代後期の道中奉行である石川忠房は、文政5年(1822年)に地元民から再三嘆願されていた中山道・安中宿の人馬提供数の負担を半減させる宿駅制度の改革を行うなど、それまでの宿駅制度について改革を実行されたりもしたが、時代の推移とともに一般人の旅行者が増えるに従って、幕府御用の交通量も増えていったことから、これに対応する助郷制度が作られるなど沿線住民の負担は増える一方であった[9]。結局、幕府御用の輸送を沿線住民がすべて負担するというこれら幕府の特権制度について、幕府が抜本的な改革を行うことがなかったため解消されることはなく、幕藩体制が消滅して明治時代に入るまでの間続いた[9]。そのため、多大な負担が課せられた宿駅制度が幕府崩壊の一因でもあるともいわれている[9]
幕府の取り締まりと街道の発展

五街道のなかでも、江戸幕府が最も重要視したのは東海道で、「入鉄砲出女」とよばれる交通政策がとられ、とりわけ関所における取り締まりが厳しかった[6]。入鉄砲とは、江戸に武器が入ってくることの取り締まりを指し、出女とは、参勤交代制度のために、人質として江戸に住まわせた諸大名の妻子らが、江戸から脱出させないために監視することを指す[10]

五街道は、それに付属する脇街道とともに参勤交代などの公用のために幕府によって整備された道であったが、参勤交代によって宿場をはじめとする街道筋に大きな経済効果をもたらし、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用されるようになり、ますます栄えていった[10]
街道の規格・構造幕末における東海道の松並木

慶長9年(1604年)の布令には、徳川幕府2代将軍秀忠により諸国に道路をつくるべきとあり、関東・奥州や木曽路を含めてその広さを5間、一里塚は5間四方と『当代記』には記されている[11]。その他の資料にも道幅は5と記されているものが多くあるが、並木敷きを含むかについては街道を建設する上での疑問があり、江戸時代中期の寛政元年(1789年)に並木敷きを両側9尺以上確保した上で道幅は2間以上あればよいとの回答文書が出されている[12]


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