五箇条の御誓文
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五ケ条ノ御誓文[1]

日本の法令
法令番号明治元年(慶応4年)3月14日
種類憲法
公布1868年4月6日
主な内容明治政府の基本方針
条文リンク法令全書明治元年【第156】
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明治元年、京都御所紫宸殿にて五箇条の御誓文を公布されている様子。 聖徳記念絵画館五箇条の御誓文

五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体: 五ヶ條ノ御誓文󠄁 、: The Charter Orth、五箇条の誓文とも)は、京都御所の正殿・紫宸殿で1868年4月6日明治元年3月14日[注 1]明治天皇天神地祇誓約する形式で、公卿諸侯などに示した明治政府の基本方針[2]。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する[3]
沿革
起草の過程

明治新政府は大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し[注 2]、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年(1868年)1月、福井藩出身の参与由利公正が、「議事之体大意」五箇条[注 3]を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのままになっていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し[4]、同じく参与の東久世通禧を通じて議定副総裁岩倉具視に提出した。

福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列?會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「会盟」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする王政復古の理念にも反するという批判にさらされた。

そこで、参与で総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇をまつり、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、これが採用されることとなった。その際、木戸は、
福岡案第一条の「列侯会議ヲ興シ」を「廣ク會議ヲ興シ」(広ク会議ヲ興シ)に改め、

「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して、

木戸最終案第四条「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を新たに組み込み、

五箇条に続く勅語「我が国未曽有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ」新たに挿入させた

その他、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定副総裁三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。木戸は後日、五箇条の意図について「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている[5]
儀式と布告幟仁親王が揮毫した御誓文の原本[6]

御誓文の原本は、天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王が勅命によって儀式前日に清書した[6]

3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰(億兆安撫国威宣揚の御宸翰)が披瀝され国民に下される[7]

儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。

御誓文は太政官日誌官報の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文御宸翰が掲載された[8]
原文一、廣ク會議ヲ興シ、萬機公󠄁論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ、盛󠄁ニ經綸ヲ行フヘシ
一、官武一途󠄁、?民ニ至ル?、各其志ヲ遂󠄂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要󠄁ス
一、舊來ノ陋習󠄁ヲ破リ、天地ノ公󠄁道󠄁ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起󠄁スヘシ
我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ、朕󠄂躬ヲ以テ衆󠄁ニ先ンシ、天地神󠄀明󠄁ニ誓ヒ、大ニ斯國是ヲ定メ、萬民保全󠄁ノ道󠄁ヲ立ントス。衆󠄁亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ。
政体書体制での御誓文

慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書には三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。このほか、同布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。

また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年8月7日(1868年9月22日)の「奥羽処分ノ詔」は御誓文第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は御誓文第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。
御誓文の復活

その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。明治8年(1875年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。
自由民権運動と御誓文

土佐藩出身の板垣退助は御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして、明治7年1月12日征韓論者を集めて愛国公党を設立。同1月17日民撰議院設立建白書を左院に提出した。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、民選議会を開設すべき根拠とされ自由民権運動が高まる中、明治13年(1880年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉河野広中らが提出した『国会を開設するの允可を上願する書』でも繰り返し述べられている。また1882年(明治15年)の軍人勅諭1890年(明治23年)の教育勅語で、神格化された天皇への忠誠などが強調されたことにより、御誓文を底流にした自由民権運動の系譜は抑圧されるかたちにもなった[9]明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて、これを阻害する政府に対し批判を繰り返した。
戦後の御誓文

戦後、昭和21年(1946年1月1日昭和天皇の、いわゆる人間宣言において御誓文の全文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相が作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、GHQの許可を得て急遽加えられることになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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