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出典検索?: "五月危機"
フランスの五月革命(ごがつかくめい)は、1968年5月に起きた、フランスのパリで行われた新左翼主導の一斉蜂起の開始から、翌月の議会選挙で シャルル・ド・ゴール政権への多数派国民による支持が判明し、急速に鎮静するまでの期間を指す[1]。五月危機ともいう。 パリ郊外に1963年に新設されたパリ大学ナンテール校にて、1968年3月新左翼学生による占拠事件が発生し、同年5月10日には大学当局による学校閉鎖へ抗議する新左翼学生たちがパリ市内に結集し、警官隊と衝突した。同年5月13日には新左翼学生を支持する一部の労働者・市民が学生支援デモを行い、混迷は5月末まで続いた。ド=ゴールは5月30日に国民議会を解散し、世論の実態を問う総選挙を行うことを宣言し、事態の収拾にあたった。ジョルジュ・ポンピドゥー首相はフランスを「共産主義の脅威」に直面してるため、デモに参加していないサイレント・マジョリティーに「共和国防衛」を訴え、声を上げようと呼びかけた。翌6月に行われた総選挙はフランス国民多数派による新左翼暴動への反発からド=ゴール派が圧勝し、危機は去った(en:1968 French legislative election
概要
「パリ五月革命が直接シャルル・ド・ゴール政権を倒した」という言説は誤謬であり、ド・ゴール政権は共産主義者の脅威にフランス国民が選挙でNOを突き付けるように呼びかけた。そして、5月危機最中の民意を問う1968年6月の国会選挙でも圧勝し、新左デモ側はフランス国民のノイジーマイノリティであることを示した。ド・ゴールの辞任は、「1969年3月の金価格高騰」によるゼネストが巻き起こったことにある。同年翌4月にド・ゴールはこれを受けて、辞任することになった[1]。 五月革命では、キューバ革命のチェ・ゲバラと文化大革命の毛沢東ら共産主義者が運動のアイコンとして掲げられた。背景にはフランス革命からロシア革命、キューバ革命、文化大革命へと至る「革命の歴史」があり、それを高度経済成長に湧くパリの学生が導き、各国の学生運動に熱をふりまき、より拍車をかけた。 1960年代後半、欧米、日本を中心とした世界の新左翼若者は、学生運動によってお互いの理念、思想、哲学を共有し、激しい政治運動を行った。これによって国の枠組みにおさまらない対抗文化(カウンターカルチャー)や反体制文化(ヒッピー文化)を構成するユートピアスティックな「世界的な同世代」という世代的な視座が加速度を増してゆく。以降、より自由に世界とコミュニケーションできるようになった学生は発言権を強めるようになり、フランスの現代化を推進させたとの意見もある[2]。それはロックや映画、ファッション[3]、アニメ、アートなどに影響を与えたとされる[4]。 当時のフランスでは赤い中国のGrand Timonier[5]こと毛沢東の著書「Le petit livre rouge de mao」(「毛主席語録」)が流行していた。それはパリのENS(高等師範学校)[6]の学生たちを通じてひろまり、左派知識人たちを活気づけ、学生や労働者を団結させる思想だった。学生はアメリカの覇権主義に反対するモデルとして毛沢東思想の書籍を読んだ。したがって中国への憧れも「五月革命」には投影されている。ただその憧れは思想的に深められることがなく、ロマンチシズムの色彩が濃かった。さらに当然なことながら、学生には政府を転覆させる力はなかった。つまり本物の武力による革命ではなくて、学生時代のモラトリアムな革命[7]だった。「 造反有理」をかかげた日本の1960年代の安保闘争同様、有権者の多数派の支持は得られず、現実の選挙・議会構成には大きな影響をおよぼすことがなかった。 第二次大戦が終わって植民地帝国だったフランスは第四共和政という政権の安定しない政治体制に移行した(1946-1958)。このあいだにベトナムとアルジェリアという2つの旧植民地独立の挑戦をうけ、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)に派兵した。
共産主義・新左翼の影響
デモ支持派における毛沢東主義への憧れ文化大革命の紅衛兵。五月革命当時のフランスではまだ文化大革命の実態は知らされておらず、フランス人のあいだでは毛思想への過剰な期待がふくらんでいた。
騒動以前の戦後フランスの状況ド・ゴール大統領