五月信子
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さつき のぶこ
五月 信子
1925年頃
生年月日 (1894-02-13) 1894年2月13日
没年月日 (1959-07-21) 1959年7月21日(65歳没)
出生地 日本 埼玉県北足立郡浦和町(現・埼玉県さいたま市
職業女優
ジャンル演劇劇映画現代劇サイレント映画トーキー
活動期間1915年 - 1952年
配偶者高橋義信(離婚)
御手洗彦麓
著名な家族月澄江(姪・養女)
主な作品
金色夜叉
『嬰児殺し』
『灼熱の恋』
高橋お伝
瞼の母
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五月信子 1919年

五月 信子(さつき のぶこ、1894年2月13日 - 1959年7月21日)は、日本の女優。本名・御手洗忍(旧姓名・前川しのぶ)[1]

新派から映画界に転じ、創成期の松竹蒲田で活躍。川田芳子栗島すみ子と並ぶ看板スターとして知られた[2]。また、舞台女優としても劇団「近代座」を結成し、多くの後進を育てた[3]
来歴
生い立ち?舞台女優へ

埼玉県北足立郡浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)に生まれる[1][注 1]。父・潔は浦和警察署の署長をつとめた[1]。埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)を卒業後、新劇を志し、1915年9月に武田正憲川村花菱東京神田東京座で旗揚げした「新日本劇」に入る[1][5]。座員には、武田正憲を頭に、花柳章太郎・藤村秀夫・岩田祐吉正邦宏・永井赤鳥(後の柳永二郎)・渡瀬淳子・村田栄子などがいた[5]

同年の第一回公演『枝川の流れ』で、本名の前川しのぶで初舞台[1][5]。翌1916年3月の本郷座での第三回公演『虎公』(佐藤紅緑原作)で、初めて「五月信子」の芸名を名乗り、秋園久満子役を演じた[1][6]。芸名は、結婚した友人の旧姓と、本名「しのぶ」の一部から採ったという[6]。この間、芸術座附属演劇研究所で学び、1916年4月からは、「新日本劇」の地方巡業にも参加するが、劇団は同年9月に解散となる[1][注 2]。解散後間もなく、同劇団の顧問であった佐藤紅緑が残党を集めて新たに「日本座」を結成すると信子も参加し、12月の旗揚げ公演『裾野』で主演の仮名子を演じて認められる[1]新声劇をともに設立した富士野蔦枝。関西新派の一座で剣劇団である新声劇は、大正8年10月の弁天座旗揚げ後、京都座、新京極明治座などで多くの観客を掴んだ[8]

「日本座」のメンバーとして地方巡業に参加した後、1917年6月に劇団を離れ、武田正憲・諸口十九・高橋義信らが結成した「新演劇協会」に参加[1][9]。『茶を作る家』、『椿姫』などを出し物に、各地を巡演する[9]。翌1918年3月東京に戻り、井上正夫主宰の「女優劇」の一員として、浅草・吾妻座の舞台に立つ[10]。同年11月、井上と関係があった松竹合名社に招かれて大阪に移り、大阪松竹所属の「新劇団現代劇」(関西新派)の女優となる[1][11]。1919年2月の京都・明治座『路二つ』で諸口十九と共演した他、同年5月の神戸・中央劇場『太陽』でも諸口や勝見庸太郎を相手役に主演し、関西新派の幹部女優として活躍する[11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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