五日市鉄道
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五日市鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
東京府西多摩郡五日市町館谷287番地[1]
設立1922年(大正11年)5月7日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、砂利採取、不動産 他[1]
代表者専務 山内武雄[1]
資本金2,000,000円[1]
発行済株式総数40,000株(内新株20,000)[1]
主要株主

浅野証券保有 25,420株[1]

内山善一 950株[1]

小机武 350株[1]

池谷精一 350株[1]

特記事項:1940年(昭和15年)現在[1]
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五日市鉄道(いつかいちてつどう)は、東京府北多摩郡立川町(現在の立川市)と西多摩郡大久野村(現在の日の出町)及び同郡五日市町(現在のあきる野市)を結ぶため建設された鉄道路線及びその運営会社である。南武鉄道(南武線)と合併した後に国有化され、現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)五日市線となった。
歴史
前史

1889年(明治22年)甲武鉄道立川駅-八王子駅間を開業し、1894年(明治27年)に青梅鉄道が開業すると五日市地区の人々が都心へ向かうには一つは八王子駅まで約4里を馬車や人力車でいき甲武鉄道に乗る方法ともう一つは福生駅まで約3里を徒歩や人力車で途中多摩川の渡しを渡って青梅鉄道に乗り立川駅で甲武鉄道に乗り換える方法があった[2]。やがて五日市に鉄道を敷く計画が立案された。神王鉄道は1897年(明治30年)4月に設立され、路線は神奈川県神奈川-都筑郡川和村-南多摩郡八王子町-西多摩郡五日市町-同郡青梅町を予定していた[3]が、1898年(明治31年)6月に申請却下されている[4][5]。また地元有志による秋川流域の電気事業(のち秋川水力電気)は1903年(明治36年)に作成した仮契約書で発電所設置後5年以内に五日市町を起点とし八王子停車場に至る電気鉄道敷設工事に着手することがうたわれていたが[6]、本体の電気事業が日露戦争による事業中断や戦後不況などで計画が大幅に遅れていたため立ち消えとなった[7]。また1918年(大正7年)の五日市町役場会議録には八王子への鉄道敷設の請願が掲載されていた[8]。1920年(大正9年)3月に五日市町の石川虎一郎は五日市-八王子間で乗合自動車業(五王自動車[9]を開始し、続いて五日市より福生、大久野、青梅までの路線を開通させ、乗合馬車や人力車を駆逐した[10][2]
秋川水力電気と五日市鉄道
鉄道敷設申請、たび重なるルート変更

地元有志による秋川流域の電気事業計画は1916年(大正5年)に秋川水力電気株式会社を設立して[11]、12月に送電が開始された[† 1]。五日市町長岸忠左衛門[† 2]と増戸村の山林資産家の小机三造[† 3]が会社設立の推進役となり、織物買継商で五日市銀行頭取[12]の土屋常七[† 4]の積極的な出資によるものであった。電気事業は順調で予想を上回る申し込みがあり毎年増配を続けていた[13]

1919年(大正8年)4月に土屋常七の娘婿[14]であり秋川水力電気社長の紅林七五郎[15]ほかにより軽便鉄道敷設願を提出した。発起人15人のうち10人は立川-五日市間の沿線居住者で資産家層であった[16]。そのときのルートは中央本線立川信号所より分岐する専用鉄道(多摩川砂利木材鉄道[† 5])拝島終点埼玉街道付近を起点として北多摩郡拝島村、西多摩郡熊川村東秋留村西秋留村増戸村を経て五日市町までと増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至る路線であった。そして起点から多摩川砂利木材鉄道専用線、中央本線貨物支線を介して中央本線に乗り入れて立川駅に連絡することを希望していた。しかし鉄道院は実地調査した結果このルートに異議を唱え、青梅鉄道拝島駅に起点を変更するよう求めた[† 6]。その理由として最寄り駅である拝島駅にすれば建設費が軽減できること、青梅鉄道は余力があり輸送力は問題ないことをあげた。それに対し1920年(大正9年)3月に五日市鉄道が出した起点変更願いでは起点を立川駅に変更して青梅鉄道の南方を通るルートをあげており青梅鉄道を利用しないことに固執していた。しかし結局同年8月には鉄道院の指示通り起点を拝島駅に変更し、1921年(大正10年)7月に鉄道免許状が下付された[16]
資金難、会社存亡の危機

1922年(大正11年)5月に創立総会が開かれ五日市の名士である内山安兵衛[† 7][17]が取締役社長に就任。岸忠左衛門、小机三造、紅林七五郎ら秋川水力電気関係者が役員となった[18]。沿線町村長をはじめとして有力者を巻き込んだ運動により2万株の割当も応募申し込みが殺到するほどであった[19]。しかし実際に始めてみると起業目論見では用地買収費97,400円であるのに買収総額(1922年(大正11年)11月時点)は243,000円。難工事のため予算の1/4を計上した多摩川橋梁[19]は237,600円のところ石川島造船所で製造した橋桁代金だけで187,500円。土木費に至っては53,000円が380,000円となり当初の予算を大幅に超過した[20]。しかも1920年の戦後恐慌により株金の徴収[† 8]が滞っていた。やむなく発起人たちが未払いの株金を負担し1923年(大正12年)3月に工事に着手したものの9月に発生した関東大震災が追い打ちをかけた。小机らは土地売主に代金支払い遅延を詫びにまわり、資金調達に奔走するなどしたが、とうとう川崎銀行より融資10万円を受けるため一部の株主の反対を押し切り担保として秋川水力電気の全資産を提供することになった[20]
拝島-岩井間開業
浅野セメントの経営支配

1910-1920年代は日本のセメント生産が急増していた時期であった[21]。浅野セメント(浅野財閥)は関東地方に深川工場と1917年(大正6年)に操業開始した川崎工場を所有しており、川崎工場用の原料の石灰石は青梅鉄道沿線より調達していた[22]。しかし石灰石採掘販売を兼業していた青梅鉄道は諸般の事情[† 9]から採掘量が伸び悩んでいた。そのため浅野セメントは直営の石灰石採掘を決断し1920年(大正9年)に青梅鉄道より二俣尾の雷電山及び日向和田での採掘権を買収した。


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