凡例五島純玄
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永禄5年(1562年)
死没文禄3年7月28日(1594年9月12日)
改名宇久次郎純玄→五島次郎純玄
別名通称:次郎、修理大夫、大和守、若狭守
戒名大圓寺殿子峰源師大居士
霊名ドン・ルイス[1]
墓所大円寺(長崎県五島市大円寺町)
官位従五位下大和守、若狭守
主君豊臣秀吉
氏族宇久氏→五島氏
父母父:宇久純尭(ドン・ルイス)、母:ドーニャ・マリア[2]
兄弟純玄、細御寮(宇久盛長室)
妻正室:松浦鎮信の養女(西郷純尚
五島 純玄(ごとう すみはる)は、戦国時代から安土桃山時代の大名。初めは宇久(うく)次郎純玄を名乗り、宇久氏第20代当主、五島氏の初代。 宇久家は純定の代にキリスト教が伝来し、純尭は夫婦で入信し、純玄も若いときに洗礼を受けて洗礼名はドン・ルイスといった[5][6]。 天正15年(1587年)に父の死で家督を継ぐ[7]。同年の豊臣秀吉の九州平定の時、豊後国府内に赴いて謁見して帰服し、所領を安堵された[8]。このとき備前守重の刀と御朱印法度書を賜り、五島の守りのために遠征参加を免除されて帰された[9][10]。 秀吉は九州役直後に最初のバテレン追放令を発したが、後見人として宇久家の実権を持っていた大叔父宇久盛重
略歴
文禄元年(1592年)から始まった文禄の役に従軍することになり、(先祖は宇久島の出身だが)五島に住んでいたので、これを期して名字を宇久から五島に改姓したとも[10][14]秀吉に主従したときだったともいう[15]が、いずれにしろ以後は、五島純玄を名乗る。また大和中納言(豊臣秀保)を憚って、官位の名乗りも若狭守に改めた[9]。
五島勢は、長崎から戻った叔父大浜玄雅も共に出陣することになり、兵700、軍船17艘、属船8艘で渡海し[4]、宇久盛長は留守居となった[9]。先鋒となった小西行長の一番隊に属して連戦連勝で活躍したが、翌文禄3年(1594年)7月の休戦交渉中、純玄は疱瘡(天然痘)にかかって、看病の甲斐なく同月28日に死去した。享年33[16]。詳細は「朝鮮出兵における五島勢」を参照
亡くなる前、宇久盛重が国元で死去したと聞いた純玄は、五島で再びキリシタンを保護したいと考えて、同じくキリシタン大名である小西行長に相談していたが[17]、子がなく純玄が亡くなったため、行長は五島家臣と相談して(キリシタンの)五島玄雅(大浜玄雅)を推したが、本人が固辞したため、同じく亡くなっていた宇久盛長の2歳の子を養子とするという条件で玄雅を説得して[18]、彼が五島1万2千6百石の福江藩藩祖となった。
その後、純玄の遺体は酒に漬けられて五島に運ばれ、福江大円寺に葬られた[19]。純玄の夫人は、遺体が漬けられた酒を三杯飲んで、暇をもらって平戸の実家に帰ったと言われる[3]。また鎌倉時代の先祖である宇久五島家5代の宇久競と共に始祖城山大権現に併祀され、城山神社の三柱神としても祀られている[20]。
脚注[脚注の使い方]^ グスマン東方傳道史, p. 60, - Google ブックス
^ グスマン東方傳道史, p. 85, - Google ブックス