五島慶太
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元サッカー選手の「後藤圭太」とは別人です。

日本政治家五島 慶太ごとう けいた

生年月日 (1882-04-18) 1882年4月18日
出生地長野県小県郡殿戸村(現・青木村
没年月日 (1959-08-14) 1959年8月14日(77歳没)
出身校東京帝国大学
前職農商務省官僚
鉄道院官僚
目黒蒲田電鉄専務・代表取締役社長
東京横浜電鉄専務・代表取締役社長
京浜電気鉄道代表取締役社長
小田急電鉄代表取締役社長
東京急行電鉄代表取締役社長・会長
所属政党無所属
称号正三位
勲一等旭日大綬章
長野県青木村名誉村民
配偶者妻・五島万千代
親族長男・五島昇
孫・五島哲
第2代 運輸通信大臣
内閣東條内閣
在任期間1944年2月19日 - 1944年7月22日
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五島 慶太(ごとう けいた 旧姓・小林、1882年明治15年〉4月18日 - 1959年昭和34年〉8月14日)は、日本実業家政治家官僚東急電鉄の事実上の創業者。正三位勲一等長野県青木村名誉村民[1]
来歴

長野県の農家に生まれ、東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(後の東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収し、「強盗慶太」の異名を取った。一方、実業家としては優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称された他、「ピストル堤」と呼ばれた西武グループ堤康次郎とは犬猿の仲だった。
幼少期 - 大学卒業

長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農業を営む小林菊右衛門・寿ゑ夫妻の二男として生まれる[2]。幼少時分はガキ大将であったが、弱い者いじめはしなかった。1893年に青木尋常小学校(現・青木村立青木小学校)、1895年に浦里尋常小学校高等科(現・上田市立浦里小学校)を卒業[2]。父は製糸業などに手を出し失敗していたため、家計は苦しかったが、慶太の志は高く、父を説得して長野県尋常中学校上田支校(現・長野県上田高等学校)に入学した。青木村の自宅から徒歩で片道2時間かけて通学した。中学の3年を終えると、長野県尋常中学校松本本校(現・長野県松本深志高等学校)に親友大井新次郎(後の多摩川園長)とともに松本の知人の家に下宿しながら通学し、4年・5年を修了した[2][3][注釈 1]

慶太はさらに上級学校への進学を夢見たが、経済的理由から進学を断念して青木小学校の代用教員となる。慶太の向学心は強く、1902年(明治35年)の夏に上京して東京高等商業学校を受験するが、英語で失敗し不合格[要出典]。1903年に学費が不要な東京高等師範学校に合格し、代用教員を辞して英文科へ進学した[要出典]。東京高師では地理歴史英語教育学などを学んだが、のちの人生に残らず、唯一人生の指針となったのは校長の嘉納治五郎が日頃語っていた「なにくそッ」の教訓だった[4]

卒業後の1906年に英語教師として三重県四日市市立商業學校に赴任する[2]も、「一度学校に赴任してみると、校長はじめ同僚がいかにも低調でバカに見えて、とうていともに仕事をしていくに足りない者ばかりだった。」と不満を持ち、さらなる最高学府への進学を志して、1907年(明治40年)9月に東京帝国大学政治学科の選科に入学する。10月に旧制第一高等学校の卒業資格試験に合格して法学部本科に転学した。再び学資に窮し、東京高師の校長で在学中に世話になった嘉納の紹介を得て、富井政章男爵の子息の家庭教師として居候する。富井の子息の第二高等学校進学が決まると、次は富井の紹介で加藤高明の子息加藤厚太郎の家庭教師として加藤邸に居候する。

1911年(明治44年)、東京帝国大学を卒業する時はすでに29歳であったが、高等文官試験に合格し、加藤高明の斡旋で農商務省に入省。工場法施行に伴い、工場監督官に採用されるが、施行が3年延期になったため、鉄道院に移った。
鉄道業界へ

鉄道院では文書課、監督局、監督局内の総務課と職場を移り、1919年大正8年)に総務課長に就くが、高等官七等の身分であるため「課長心得」となる。この処遇が気に食わず、稟議書の認可押印時に、わざと「心得」の2字を消してから上席へ回した。気付いた次官が理由を尋ねると「私は本当の課長としての責任をとって本気で書類に判を押している。心得というような中途半端な無責任な字は消している。これは、私を侮辱したことになる」と答え、心意気を請われて「課長」に昇進した。1年半ほどのちに官吏の生活に飽きてきた頃、武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東急東横線の母体)社長の郷誠之助が資金集めに難航し、鉄道建設に専門の知識を持った常務を求めて鉄道院次官に掛け合った。次官は「課長心得が気に入らないと言って『心得』を消してくる面白いやつがいる」と五島を紹介した。これを渡りに舟と感じた五島は1920年(大正9年)5月11日に鉄道院を辞し、武蔵電気鉄道常務に就任した。

その頃、実業家の渋沢栄一らによって理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に設立された田園都市株式会社[5]東京府荏原郡田園調布[6]洗足などに分譲用として45万坪の土地を購入した。その住民に交通の便を提供するため、目黒駅蒲田駅から同経営地まで鉄道を敷設するため荏原電機鉄道も設立したが、素人ばかりのため経営不振に陥っていた。そこで大株主の第一生命保険社長の矢野恒太に相談したところ、第一生命相談役の和田豊治が阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三を推した。小林は名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、の約束で経営を引き受け、玉川田園調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めた[7][8]。目黒蒲田電鉄を立ち上げる時に小林が多忙のため、代わりに鉄道院出身であった五島を推挙した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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