五島列島
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五島列島の位置

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度41分43.8秒 東経128度50分26.9秒 / 北緯32.695500度 東経128.840806度 / 32.695500; 128.840806 (福江島)五島列島(ごとうれっとう)は、長崎県西部に位置する列島[1]。全島が長崎県に属し、人口は約7万人。長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって[2]大小あわせて152の島々からなる[3]
概要五島列島の風景

五島列島は、自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定されるなど豊かな自然景観を有している。島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として2018年に世界遺産登録がなされた。昭和時代には、東シナ海で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、現在も漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。

なお、「五島列島」とは学問的な呼び名であり、現地の会話の中ではあまり使われず、地元や九州地方では単に「五島」と言うことが多い。
地理五島列島の地形図

長崎県に属する五島列島は九州本土の西に位置している。全域が旧松浦郡であり、かつ西海国立公園に指定されており、北東側から中通島若松島奈留島久賀島福江島の5つの大きな島およびその周辺の小さな島々からなる。長崎県には非常に多くの島があるが、五島列島は多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。島々は連なった山々が海に沈み高い部分だけが残って溺れ谷となった複雑なリアス式海岸線を持つ地形である。

五島列島は北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく二つに分けて、五島最大の福江島を中心とする南西の島々を「下五島(しもごとう)」、2番目に大きな中通島を中心とする北東部を「上五島(かみごとう)」と呼ぶこともある。現在の行政区域では下五島が五島市、上五島が南松浦郡新上五島町に属する。江戸時代に五島藩(福江藩)の中心であった福江島には「下五島」の呼び名はあまり使われないが、「上五島」は「中通島」以上によく使われる呼び名である。

中通島の北にある宇久島小値賀島と周辺の島々は現在の行政区域としては五島市及び新上五島町には含まれず、佐世保市及び北松浦郡小値賀町に属するが、歴史的つながりや地理的まとまりの他、フェリー貨物船航路、警察の管轄区域などが上五島と共通していることから五島列島の一部とみなされることが多い。

国際水路機関による定義では、最も南西の福江島西端が日本海東シナ海の境界とされている[4]。ただし、一般的には五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、「五島列島は東シナ海に浮かぶ島々」と紹介されることがほとんどである[5]
五島列島を構成する島五島列島の島々。太字は有人島。配色は市町に対応する。
黄:佐世保市、緑:小値賀町、青:新上五島町、桃:五島市、オレンジ:西海市

それぞれの島の面積・人口は、特記しない限り2005年平成17年)10月1日時点である[6]。なお、佐世保市(旧北松浦郡宇久町)・北松浦郡小値賀町の範囲についても記述する[7]
五島市

福江島 - 面積:326.34km2 人口:36,969人[8]

奈留島 - 面積:23.80km2 人口:2,642人[8]

前島 - 面積:0.47km2 人口:33人[8]

葛島 - 面積:0.72km2 (無人島)[9]

久賀島 - 面積:37.35km2 人口:379人[8]

蕨小島 - 面積:0.03km2 人口:11人[8]

椛島 - 面積:8.75km2 人口:154人[8]

赤島 - 面積:0.51km2 人口:19人[8]

黄島 - 面積:1.38km2 人口:50人[8]

黒島 - 面積:1.12km2 (無人島)[10]

島山島 - 面積:5.53km2 人口:25人[8]

嵯峨ノ島 - 面積:3.17km2 人口:187人[8]

姫島 - 面積:0.46km2 (無人島)[9]

男女群島

男島 - 面積:2.7km2 (無人島)[9]

クロキ島(黒木島) - 面積:0.112km2 (無人島)[9]

寄島(中ノ島) - 面積:0.25km2 (無人島)[9]

帆立岩 - 面積:●km2 (無人島)

ハナグリ島(花栗島) - 面積:0.202km2 (無人島)[9]

女島 - 面積:1.23km2 (無人島)[9]

鮫瀬 - 面積:●km2 (無人島)


鳥島 - 面積:●km2 (無人島)

南松浦郡新上五島町

中通島 - 面積:168.34km2 人口:22,834人

頭ヶ島 - 面積:1.88km2 人口:19人

折島 - 面積:0.32km2 (無人島)

桐ノ小島 - 面積:0.04km2 人口:8人

若松島 - 面積:30.99km2 人口:1,935人

漁生浦島 - 面積:0.65km2 人口:30人

有福島 - 面積:2.97km2 人口:161人

日島 - 面積:1.39km2 人口:52人

北松浦郡小値賀町

小値賀島 - 面積:12.22km2 人口:2,758人

黒島 - 面積:0.24km2 人口:82人

小黒島 - 面積:●km2 (無人島)

大島 - 面積:0.71km2 人口:93人

斑島 - 面積:1.57km2 人口:272人

納島 - 面積:0.65km2 人口:31人

六島 - 面積:0.69km2 人口:31人

野崎島 - 面積:7.10km2 (無人島)[1]

野崎島は平成13年に当時最後の住民であり島を守り続けてきた沖ノ神嶋神社宮司の離村により、無人島になった。現在は、簡易宿泊施設・休憩施設「野崎島自然学塾村」の管理者以外、無人の島になっている。
佐世保市

宇久島 - 面積:24.92km2 人口:3,216人

寺島 - 面積:1.27km2 人口:23人

歴史
上古時代から平安時代まで

五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代に既に人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。

日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は最近でも中国ベトナムからの難民を乗せた船が何度も流れ着き、また台風の時は中国漁船の避難場所にもなっており、中国大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。

肥前国風土記』にも、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」と記されている。

五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。

このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後、弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。

ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。

古事記』の国産みにおいて、イザナギイザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残とされる。

日本書紀天武天皇4年夏4月18日(675年5月17日)の条に「三位麻続王に罪があって因幡に流罪とした際、その子らを伊豆大島とともに「血鹿嶋」に流した」とある。

「両児島(ふたごのしま)」についても、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。

五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。

景行天皇御代 『肥前国風土記』に、九州巡幸の時、従者に命じて五島内を視察させ、海・陸の産物,住民のこと等詳しく報告を受けたと記す。

704年 第7次遣唐使船(粟田真人山上憶良)帰朝の際に玉之浦へ漂着。

740年天平12年)に大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こしたが敗れ、肥前国松浦郡の値嘉嶋長野村(ちかのしまながのむら、現在の宇久島)で逮捕され、断首されている。

804年 第16次遣唐使船4隻、久賀島田之浦に寄泊して渡唐、最澄空海ら随行。

842年承和9年) 唐の商人李処人が博多から唐へ向かう途中、値嘉嶋奈留浦(奈留島)に寄港し、老朽化した船を廃棄し、島のを切り出して3ヶ月で新船を完成させ、6日間で唐へと渡っている[11]

876年貞観18年)には、それぞれ値嘉郷・庇羅郷(ひらごう)とも呼ばれていた五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた。

中世以降から五島藩の成立まで

その後、中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、鎌倉時代以降は松浦水軍の松浦党に属した宇久氏が勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。

宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。

1187年 松浦一族より宇久推定、宇久島にて宇久氏を名乗る。

1281年 5代目領主宇久競、元寇の役に出陣、軍功をあげる。

1351年観応2年) 小値賀島と浦部島の一部を平戸領(松浦藩)とし、浦部島の大半を青方領(五島藩)とすることで和解した。

1381年弘和3年) 8代目領主宇久覚が、宇久島から五島列島最大の島である福江島に居を移した[11]

1413年応永20年) 五島各地に拠点を構えていた豪族により五箇条の規約を設けた「宇久浦中契約」が成立し、9代目領主の宇久勝が五島の党首に推され五島統一がなった[11]

1540年天文9年) の商人の王直が通商を求めて五島に来航し、領主の宇久盛定は、通商を許可して城下に居住地を与えた[11]

また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。


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