五島うどん(ごとううどん)は、長崎県五島列島で生産されているうどん[1]。五島手延うどん(ごとうてのべうどん)とも呼ばれる。
細麺ながらも強いコシを持ち、椿油を塗って熟成するのが特徴である[2][3]。長崎県を代表するうどんであり[4]、讃岐うどん・稲庭うどんと並び、「日本三大うどん」の1つとされる[5]。日本国内での認知度は十分でないとされ、長崎県庁による認知向上の取り組みが続けられている[6][7]。
起源には諸説あり、そのうちの1つに遣唐使から中国大陸の製法が伝えられたとする説がある[8]。
概説五島列島
図中の青色の島々が新上五島町
九州の麺料理はラーメンが強い人気を持つ一方で、うどんやそうめんも評価されている[9]。その背景には、地理的に中国大陸の影響を受けやすかったことや、小麦生産の盛んな県が多いことがある[9]。同じ北部九州の博多うどんは太麺で柔らかいという特徴があるが、五島うどんは対照的に細麺で弾力が強い[9]。コシの強さを特徴とする一方、「讃岐うどんほどの強いコシはない」と評される[5]。
麺の太さは直径2mmほどであり[1]、一般的なうどんよりはそうめんに近い細丸形をしている[10]。椿油を生地に練り込んでいるため、細麺でも伸びることなく、独特の食感を維持できる[10]。
基本的には手作業で製麺する[1]。五島うどんは乾麺であり主に上五島(新上五島町)で生産される[1]。なお下五島(五島市)では生麺のうどんが生産される[1]。
五島うどんのダシには五島近海で漁獲されるトビウオ(アゴ)を焼いたものをよく使う[11]。ますだ製麺の「あごうどん」は、アゴの粉末を小麦粉に練り込んだ五島うどんである[11]。 五島列島は中国から日本にうどんが伝来した地と言われている[2]。しかし、伝来の時期や過程には諸説ある[8]。 遣唐使が伝えたという説は、値嘉島(五島)が日本と唐との航海ルート上にあること、中国宋代から元代の書物『居家必用事類全集』にある唐菓子の製法と五島うどんの製法が「掛巻」と呼ばれる手延べ製法で一致していることが傍証となっている[15]。また2001年(平成13年)には上五島町教育長の吉村政徳が浙江省温州市永嘉県で五島うどんと製法の似た「岩坦索麺」が作られていることを発見し、これが伝わった可能性があると示唆した[8]。遣唐使が伝えた索餅が時間をかけて五島うどんへと変化していったという説もある。[16]。 江戸時代には各家庭で小麦を石臼でひいた小麦粉を加工業者へ持って行き、うどんにしてもらう委託加工の形で食されてきた[1]。この頃の五島うどんは自家消費用で、冠婚葬祭の時に供された[1]。 明治時代になると小麦粉が商品として流通するようになり、加工業者がこれを使って量産し、小売りも手掛けるようになった[1]。当時の一般的な流通規格は1束1斤(=600g)であった[1]。 第二次世界大戦後は、長崎県外にも五島うどんの名が知られるようになり、需要が増大した[1]。1980年代の流通規格は1束400g、長さは18.5cmであった[1]。当時はまだ「離島の隠れたうどん」という認知のされ方であった[14]。1984年(昭和59年)には中小企業庁の「地域小規模事業活性化推進事業」の補助金を上五島町商工会が獲得し、アオサを麺に練り込んだ五島うどんの新商品「あおさうどん」を開発した[17]。
歴史
起源
7世紀から9世紀に遣唐使が伝えた[4][12][13]。
鎌倉時代の元寇の折に捕虜となった兵士から、五島の船崎氏がうどん作りを学んだ[2]。
15世紀中頃に中国の貿易商人が伝えた[1]。
江戸時代の元禄年間(1688年 - 1704年)に江戸への控訴の往復に向かう時の保存食として本土から学んだ[14]。
四国のうどん職人が五島に来てうどん作りを伝えた(時期不明)[4]。
生産の増加