五味康祐
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五味 康祐
(ごみ やすすけ)
1955年
誕生五味 欣一
1921年12月20日
日本大阪市南区(現・中央区)難波町
死没1980年4月1日
日本東京都千代田区富士見 東京逓信病院
墓地鎌倉市山ノ内 建長寺回春院
職業小説家
国籍 日本
最終学歴明治大学専門部文芸科本科 除名[1]
活動期間1952年 - 1980年
ジャンル剣豪小説
オーディオ・クラシック音楽評論
手相・観相学・麻雀研究
代表作『柳生武芸帳
薄桜記
『二人の武蔵』
主な受賞歴芥川龍之介賞(1953年)
デビュー作『喪神』
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五味 康祐(ごみ やすすけ[注釈 1]1921年12月20日 - 1980年4月1日)は、日本小説家

五味の本名は「康祐」であり、ヨミは「やすすけ」であるとされてきた[1]。なお、(公財)練馬区文化振興協会が所蔵する五味自筆の年譜では、本名についての記述はない[1]。一方で、『五味康祐の世界展』図録の添付年譜には、「幼少時は『欣一』または『欣吾』と呼ばれていた」と記載されている[1]

五味が在学した明治大学に残る史料によると、五味の本名は五味 欣一である[1]

剣豪を扱った歴史時代小説を始め数々の作品を発表。特に柳生十兵衛など柳生一族を扱った作品で知られており「五味の柳生か、柳生の五味か」と評された。『週刊新潮』をはじめとする出版社系週刊誌の爆発的流行と軌を一にする、昭和30年代から40年代(1950年代後半から1970年代前半)の流行作家であった。戦前の剣豪小説と全く異なる新たな剣豪小説の世界は、芥川賞受賞作『喪神』で始まったと言っても過言でないが、58歳という短い生涯であった[2]
オーディオ・クラシック音楽評論でも著名で、「オーディオの神様」とも呼ばれ、『西方の音』『天の聲 西方の音』『オーディオ巡礼』『いい音 いい音楽』などの著書がある。 
経歴

大阪市難波生まれる、幼くして父親を亡くし、育ったのは母方の祖父の家で、大阪・千日前一帯に多くの芝居小屋や映画館を有する大興行師の家だった。

大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)を卒業し、第二早稲田高等学院(旧制早稲田大学大学予科)に進むも中退[1]。中退したのは1942年(昭和17年)とされる。既に徴兵年齢の20歳を超えており、徴兵を逃れるために1943年(昭和18年)4月に明治大学専門部文芸科本科に入学するも、終戦直前の1945年(昭和20年)5月に除名されている[1]。この頃日本浪漫派の影響を受ける。

学徒出陣で陸軍に入り、一兵卒として中国大陸を転戦し、1945年の終戦を迎える。南京で捕虜として過ごした後、1946年に復員し、保田與重郎に師事する。同年、邦光史郎とともに『文学地帯』を刊行。編集長を務める。『文学地帯』に、日本浪漫派の影響がみられる短編小説『天の宴』『問いし君はも』を寄稿。

1947年亀井勝一郎を頼り上京、東京都三鷹市に住み、太宰治男女ノ川登三と共に「三鷹の三奇人」と呼ばれる。この頃、関西の出版社の社員として岡本太郎の前衛芸術運動「夜の会」に接近、多くの影響を受ける[3]。1948年11月、亀井勝一郎から絶縁される。1949年、歌人前川佐美雄の妻の妹と結婚。1950年には神戸で放浪生活を送り、覚醒剤中毒で入院。

さまざまな職を経て、1952年に再び上京、音楽を通じて知り合った新潮社の役員斎藤十一の紹介で、同社の社外校正をしながら小説を書くが、没ばかりであった。その後、ドビュッシー「西風の見たもの」を聴いて着想・執筆した『喪神』が、斎藤十一の推薦で『新潮1952年12月号の「同人雑誌推薦新人特集」に掲載され、1953年、第28回芥川賞を受賞。『喪神』は原稿用紙30枚の短編小説であり、歴代の芥川賞受賞作のうち最も短い[4]。同作はその年に大映で『魔剣』の題名で映画化される。 毎日新聞社「毎日グラフ(1954年9月1日号)」より。

その後は『柳生連也斎』など独特の時代小説を発表し1956年2月の『週刊新潮』創刊号から『柳生武芸帳』を連載して人気を博した。主人公の集団性、禁欲的な剣豪でなく、本能のままに生きる剣豪というとらえ方、そして日本浪曼派の影響の濃い、剣の達人の持つ精神性の表現と、格調高い文体で高く評価されている。

手相観相学に通じており『五味手相教室』や『五味人相教室』などの著作を残した。五味は1974年に発表した文章で「私は多分、五十八歳まで寿命があるはずと、自分の観相学で判じているが、こればかりはあてにならない。」と述べていたが[5]、6年後の1980年に58歳で死去した。

麻雀にも造詣が深く、『五味マージャン教室』などを上梓し、色川武大に先んじて本格的な麻雀小説を書いた。

将棋も愛好しており、将棋観戦記を執筆。1956年に、当時名人だった大山康晴を非難する小説を発表し、大山からクレームがあったため、謝罪した[6] 週刊文春』 1959年12月14日号文春歌舞伎『京鹿子娘道成寺』の一場面。右から、加藤芳郎平岩弓枝小山いと子芝木好子、五味康祐、平林たい子森田たま

カーマニアとしても知られていたが、1961年5月に飲酒運転で逮捕。1964年1月31日には、三重県鈴鹿市富田町の国道1号雪駄履きのまま自家用車を猛スピードで運転中にトラックと正面衝突を起こし内臓破裂などで一時重体となった。1965年7月24日には、脇見運転とスピード違反により、名古屋市で60歳の女性とその孫の6歳の少年を死亡させる交通事故を起こして逮捕される。このとき、志賀直哉川端康成小林秀雄[7]井伏鱒二井上靖三島由紀夫柴田錬三郎水上勉亀井勝一郎保田與重郎が連署で執行猶予を乞う上申書を裁判所に提出し、1966年、五味は禁固1年6月、執行猶予5年の有罪判決を受けた。贖罪の心の沈潜した『自日没』(にちぼつより)などの作品が書かれた。

五味は1952年(昭和27年)から東京都練馬区に住み、剣豪作家として財をなしてからは同区大泉学園町に邸宅を構え、没時まで居住した[8]

1980年(昭和55年)、肺癌のため死去。


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