ごみ くにたろう
五味 国太郎
生年月日 (1875-01-08) 1875年1月8日
没年月日 (1922-04-28) 1922年4月28日(47歳没)
出生地 日本 栃木県那須郡烏山町(現在の同県那須烏山市)
死没地 日本 大阪府大阪市
職業俳優
ジャンル新派、劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画)
活動期間1900年 - 1922年
配偶者あり
著名な家族五味國男(息子)
五味國枝(娘)
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五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 1922年4月28日[1])は、日本の俳優である。 東京に移り、1900年(明治33年)、満25歳のとき、新派の高田実が主宰する「高田実一座」に入座、東京・本郷座で多く出演した[1]。 1908年(明治41年)に吉沢商店が目黒に開設したグラスステージをもつ映画スタジオ・吉沢商店目黒撮影所に、1910年(明治43年)ころから出演を始める。女形の木下吉之助
人物・来歴
日活を形成した1社である福宝堂出身の山川吉太郎と小林喜三郎が設立した天活に、1916年(大正5年)に入社、サイレント映画や連鎖劇に多く出演した。なかでも連鎖劇で演じた将軍・乃木希典で人気を博した[1]。天活には1918年(大正7年)まで在籍した。1919年(大正8年)、天活は小林喜三郎が設立した国際活映(国活)が買収、1920年(大正9年)には国活の映画にも出演したが、同年、松竹キネマが蒲田に開所した直後の松竹蒲田撮影所に入社する[1]。
1921年(大正10年)いっぱいで松竹キネマを退社、舞台での実演に戻るが、大阪での公演中に倒れ、1922年(大正11年)4月28日に病死した[1]。満47歳没。 すべて出演、吉沢商店、日活向島撮影所時代の記録はあまり残っていない。
おもなフィルモグラフィ
吉沢商店
1910年
『競艶録』 : 監督・脚本不明、共演藤沢浅二郎、木下吉之助
『箱根の湯治