五十嵐孝司
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いがらし こうじ
五十嵐 孝司
2017年ニューヨーク・コミコンにて
生誕 (1968-03-17) 1968年3月17日(56歳)
日本福島県
職業ゲームクリエイター(ゲームデベロッパー)
活動期間1990年 - 現在
雇用者コナミ(1990年 - 2014年)
Artplay(2014年 - 現在)
代表作『ときめきメモリアル
悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲
キャッスルヴァニア
ブラッドステインド:リチュアル・オブ・ザ・ナイト
影響を受けたもの『クレイジー・クライマー
影響を与えたもの『ときめきメモリアル』シリーズ
『悪魔城ドラキュラ』シリーズ
肩書き(株)ArtPlay代表取締役
公式サイト ⇒artplay.co.jp
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五十嵐 孝司(いがらし こうじ、1968年3月17日 - )は、日本のゲームクリエイター(ゲームデベロッパー)脚本家作詞家実業家。クリエイター名「IGA」[1]。(株)ArtPlay代表取締役プロデューサー。福島県出身。
概要

1990年にプログラマーとしてコナミ(現:コナミデジタルエンタテインメント)に入社。PCエンジン用ゲームソフトの開発等を経て、1994年に大ヒット作となった『ときめきメモリアル』の開発に携わったのち、1997年の『悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲』でアシスタントディレクター、2000年の『エルダーゲート』でディレクターとなり、2001年の『悪魔城年代記 悪魔城ドラキュラ』(移植作品。オリジナル作品は翌年の『キャッスルヴァニア 白夜の協奏曲』から)以降は同シリーズやその他のコナミのゲームのプロデューサーとなり関わった。2014年にコナミを退社後、Artplayを馮剛と共同創業し、2019年に『ブラッドステインド:リチュアル・オブ・ザ・ナイト』をリリースした。
生い立ち

五十嵐は1968年3月17日に福島県で生まれた。[2]彼の父はだった。幼少時の五十嵐は大工になることに興味を持ち、その後、芸術家を目指すようになった。[2]10代のころ、彼はビデオカメラを持って近くにある白河小峰城を探検していた。[2]10歳のときにプレイしたアタリのテニスゲーム『ポン』が彼にとって最初のビデオゲーム体験であり、その2年後の『クレイジー・クライマー』がゲーム作りを志すきっかけとなった。[2]彼は独学でコンピュータプログラム言語BASICアセンブリ言語を学び、自作ゲームを作った。[2]大学在籍時にGrafikaという会社から内定を受けたが、その会社では働きたくなかったため辞退し、次に内定を出したコナミに就職した。[2]
経歴
コナミ時代(1990年 - 2014年)

1990年の大学卒業後、コナミに入社した。[3]彼が最初に関わったプロジェクトは、教育ソフト部門でシミュレーションゲームのプログラマーだった。[4]そのゲームは経営シミュレーションであり、開発チームは『ファイアーエムブレム』の影響を受けていたが、12ヶ月後に開発が中止された。[2]彼はコンシューマー部門に移り、PCエンジン版『出たな!!ツインビー』の敵プログラムを手掛けた。[5]PCエンジンSUPER CD-ROM2用恋愛シミュレーションゲーム『ときめきメモリアル』では、彼はプログラマーとして働きつつ、ストーリー執筆を担当した。[4]当時交際していた女性(後に妻となる人物)もコナミの従業員で、彼女は『悪魔城ドラキュラX 血の輪廻』に携わっていた。彼女は五十嵐に『ときめきメモリアル』のストーリーの書き方をアドバイスし、五十嵐は休憩時間に『血の輪廻』をプレイしていたという。[2]五十嵐は『ときめきメモリアル』の続編を手がけるようにと上司に言われたが、その気がないことを上司に伝え、異動を願い出た。『ときめきメモリアル』の売れ行きが好調だったため上司もそれを受け入れ、五十嵐は希望する『悪魔城ドラキュラ』の東京開発チーム(悪魔城ドラキュラ開発チームは複数あった)へと加わった。[6]

その開発チームはスーパー32X用の『悪魔城ドラキュラ』シリーズ作の開発を始めたが、失敗に終わった32XよりもPlayStationに注力するというコナミの判断により同作の開発は中止された。[7]次のプロジェクトはPlayStation用ゲーム『悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲』で、五十嵐は古川敏治と共作したシナリオとプログラムを担当した[8][9]。同作の制作中も五十嵐は引き続き『ときめきメモリアル』に関わっており、『ときめきメモリアル』と『月下の夜想曲』の開発を行き来していた[10]。同作の制作途中にはディレクターの萩原徹がプロデューサーに昇進してプロデューサーとディレクターを兼任するようにもなり、五十嵐はアシスタントディレクターに昇格している。[11][12]同作への批評家からの評価は高く、後に「メトロイドヴァニア」と呼ばれるジャンルに影響を与えたが、売り上げには繋がらなかった。[8]

『月下の夜想曲』のリリース後、2000年に発売されたPlayStation用RPG『エルダーゲート』のディレクターを務めた。[13]シナリオを重視した大作主義のRPGは一旦中断すると再開後にプレイ意欲をなくしてしまうという五十嵐の体験から、気が向いたときにプレイでき、プレイするたびに新鮮さを感じられるようなゲームを作りたかったと語る。[13]同作は『ファミ通』で40点中22点の評価を受けた。[14]

その後、1993年に発売されていたX68000用ゲーム『悪魔城ドラキュラ』のPlayStationへのアレンジ移植作となる『悪魔城年代記 悪魔城ドラキュラ』でプロデューサーを務め[4]ゲームボーイアドバンスでの『悪魔城ドラキュラ』シリーズ2作目となった『キャッスルヴァニア 白夜の協奏曲』ではプロデューサー兼シナリオを務めた。同作は『月下の夜想曲』のようなゲームを作ることを目指しており、[15]、『月下の夜想曲』のキャラクターデザインを手掛けた小島文美を復帰させたこともその一環だった。五十嵐はゲームボーイアドバンス前作『悪魔城ドラキュラ サークル オブ ザ ムーン』時のゲーム機画面が暗すぎると感じており、ゲーム画面をより明るくする必要性を感じていた。


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