五十嵐亮太
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北海道日本ハムファイターズ所属の「五十幡亮汰」とは別人です。

五十嵐 亮太福岡ソフトバンクホークス時代
(2013年4月14日 福岡ヤフオク!ドーム
基本情報
国籍 日本
出身地北海道留萌市
生年月日 (1979-05-28) 1979年5月28日(45歳)
身長
体重178 cm
95 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1997年 ドラフト2位
初出場NPB / 1999年4月20日
MLB / 2010年4月8日
最終出場NPB / 2020年10月25日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


敬愛学園高等学校

ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ
(1998 - 2009)

ニューヨーク・メッツ (2010 - 2011)

トロント・ブルージェイズ (2012)

ニューヨーク・ヤンキース (2012)

福岡ソフトバンクホークス (2013 - 2018)

東京ヤクルトスワローズ (2019 - 2020)

派遣歴


ヒガンテス・デル・シバオ (2011)

トマテロス・デ・クリアカン (2016)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

五十嵐 亮太(いがらし りょうた、1979年5月28日[1] - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、野球解説者
経歴

夕張市出身で北海道夕張南高等学校アルペンスキー国体選手だった父親と、留萌市出身の母親との間に留萌市で生まれ、札幌市で育つ。小学4年時に千葉県へ転校。北海道生まれ、千葉県育ち。母親はヤクルトOBで監督も務めた若松勉留萌中学校の同窓であった。
プロ入り前

柏井ジャガースで軟式野球を始め、花見川第一中学校へ進学後は千葉北のリトル・シニアに所属。中学時代までは一塁手で、小学校時代に肩を買われ、捕手を経験したこともある[2]

五十嵐自身は、シニア時代を「打てない、走れない、守れない」「まるでヘボだった」と述懐しており、また同僚も五十嵐がプロ入りしたことに対して意外の感を持っていたことを後年になって明かしている[3]

敬愛学園高等学校進学後は、五十嵐の鉄砲肩を見抜かれ、投手へ転向。なお、シニア時代の監督は五十嵐が高校に進学した際は捕手にする意向であったという[3]。当初はストレートとカーブしか投げることができなかったが、高校2年の夏にはすでに球速が140km/h近くまで伸びた[3]

3年夏の千葉大会は5回戦で敗退したものの[4]、県内屈指の豪腕投手として名を馳せ、1997年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから2位指名を受け入団した。背番号は53。
ヤクルト時代

1998年は二軍で10試合に登板、30奪三振を記録して注目を集めた。イースタン・リーグの優勝が決定した9月26日の試合では、6回参考記録ながら完全試合を達成している[5]ファーム日本選手権ではMVPを獲得[6]。高卒ルーキーでは史上初の受賞となった[7]

1999年は開幕こそ二軍で迎えたが、廣田浩章の降格に伴い、4月20日に一軍初昇格。その日の対中日ドラゴンズ戦の12回表同点の場面で初登板したが、制球を乱し、敗戦投手となった。それでも故障者の多い投手事情もあって一軍に残留。5月27日の対横浜ベイスターズ戦では、7回表から登板。1回を無失点に抑えると、その裏にチームが3点を逆転、そのまま勝利したためプロ初勝利となった。しかしその後、6月末には二軍落ちとなり、7月23日には横浜スタジアムで行われたフレッシュオールスターゲームに出場したが、濱中治新井貴浩に連続適時打を打たれ、2イニングを投げ、2失点だった[8]。それでも8月に一軍に復帰すると、終盤戦では最速154 km/hの速球が買われ、徐々に接戦での登板も増加。四死球の多さが課題とされたが、中継ぎのみで最終的に6勝を記録する活躍を見せた。

2000年は前年の活躍を受け、自身初の開幕一軍入り。チームは開幕6戦で1勝5敗とスタートダッシュに失敗していたが、4月だけで3勝1敗の五十嵐の活躍を受け、徐々に持ち直した。一時は「五十嵐が投げると勝てる」とまで言われ、中継ぎのみでオールスター戦前だけで11勝を記録。ハーラーダービートップを走り、監督推薦で自身初のオールスターゲームにも出場した。しかし、8月8日の試合でマメが潰れ、二軍に降格。復帰後は勝ち星を挙げることが出来ず、最多勝は14勝のメルビン・バンチに譲った。それでもオフには古田敦也と共に最優秀バッテリー賞に選ばれた。契約更改では推定1.600万円から大幅増の推定4300万円で一発サイン。なお、その時に球団から新背番号11番を提示され五十嵐も一度は了承し、球団も翌年度のカレンダーに11番を記載したが、現在使用している53番に愛着が強くなったと、再度旧番号への変更を願い出る場面があった。

2001年キャンプ中に全治1か月の肉離れを発症する。3月に復帰して開幕こそ一軍に間に合わせたが、5月に今度は右肘痛を発症して二軍に降格。復帰は7月半ばまでずれこみ、チームが優勝する中、波に乗り切れない一年となってしまった。それでも41試合に登板し、防御率は自己最高の2.59と、終盤のチームを支えた。しかし、大阪近鉄バファローズ戦の日本シリーズでは第2戦8回裏同点の場面で登板したが、タフィ・ローズに3点本塁打を打たれて敗戦投手となり、それ以降の試合には登板しなかった。

2002年はファンからの公募により、同僚の石井弘寿と共にロケットボーイズの愛称が付いた。シーズンでは不動のセットアッパーとしてチームに貢献し、自身初めて開幕からシーズン終了まで一軍に帯同。7月には監督推薦で自身2度目のオールスターゲームに出場し、速球勝負でも話題を集めた。最終的には64試合に登板し、中継ぎのみで8勝を記録した他、防御率は2.08と自己最高の成績を残した。

2003年は故障者の多い投手陣の中で前年に続いて開幕から1年間一軍に定着。監督推薦で3度目のオールスターゲーム出場を果たした。2年連続60試合登板となる66試合に登板し、同年のセ・リーグ最多登板となり、「勝利の方程式」の一角を担った。

2004年は前年まで抑えを務めた高津臣吾の米メジャーリーグ移籍により、抑えに回る。6月3日の対阪神タイガース戦で、当時の日本プロ野球最速タイ記録となる158 km/hを今岡誠に対して記録[9]NPB史上初のストライキが解除された後、最初の試合となった9月20日にも、対阪神戦で矢野輝弘に対し、3球連続を含む計4球で158 km/hを計測し、「速球王」の称号を手にした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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