五個荘金堂町
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五個荘金堂町
町丁
花筏通り。左手は中江準五郎邸。
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日本
都道府県 滋賀県
市町村 東近江市
地域五個荘地域
町名制定2005年(平成17年)2月11日
面積[1]
 ? 合計0.825574904 km2
人口(2019年(令和元年)9月1日現在)[2]
 ? 合計633人
 ? 密度770人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号529-1405[3]
市外局番0748(八日市MA[4]
ナンバープレート滋賀

五個荘金堂町(ごかしょうこんどうちょう)は、滋賀県東近江市五個荘地区にある町である。古代条里制の区画割りを残す農村地帯であると同時に江戸末期から昭和初期にかけて活躍した近江商人の発祥の地でもあり、水田風景のなかに商人屋敷と社寺が甍を並べる町並みが重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観? 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[5]
地理五個荘金堂町付近の空中写真。画像中央付近の家並みが五個荘金堂町。周囲は条里制地割りの面影を残す水田地帯が広がる。
1982年撮影。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。五個荘金堂町の掘割

五個荘地区のほぼ中央部に位置し、町域は条里制の地割に従ってほぼ正方形をしている。集落は町域の中部から南部に密集し、東部と南西部には小規模な団地が昭和中期に開発されている。金堂町の北では五個荘七里町、北東では宮荘町、南東では五個荘竜田町、南では五個荘石川町、南西では五個荘塚本町、北西では五個荘石馬寺町と接する。

小字は一ノ坪、二ノ坪、三ノ坪、四ノ坪、七ノ坪、八ノ坪、九ノ坪、宮の前、宮の後、大城、南大城、道法寺、上石井、中石井、下石井、流、解田、番場、宮西、土ノ木、上五反地、下五反地、安養坊、北端乗、南端乗、下端乗、井戸川、前羅、八五瀬、雁ノ辻、干畑、上中村、堂ノ東、西出、南出、北出、没西、上友田、下友田、柳、中村、門田、正源寺、外ヶ辻、内田、日没木、武功臣、代新枚、生柳川、石田、小?、榎ノ実、庵の後、垣戸、横代、食田、森尻、村端瀬、大畔、銚子、久ヰノ戸、盆田、円田、芦本、緑田、平木、横川田、横善覚寺、立善覚寺、狐、和井挾、北大橋、南大橋、左倉、川名部の75。条里制にちなむ名称が散見される。
歴史

「金堂」という地名は聖徳太子が当地に金堂を建立したという伝承に由来する。現在の大城神社北東には8世紀創建と推定される金堂廃寺跡があり、地区中心部には聖徳太子開基伝承をもつ浄栄寺がある。地名は「今堂」や「近藤」と表記されることもあった。

古代以来、神崎郡に属した。古代の遺構としては、集落北方の農地で古墳時代後期と奈良時代の遺跡が発掘されている(正源寺遺跡)。また、地区内の道路や農地の地割りには条里制の名残がみられる。中世には山前南荘に属し、六角氏の支配を受けた。観音寺城の戦いでは金堂村を含む五個荘一帯が主戦場となった。

江戸時代ははじめは幕府領で小堀氏が代官であった。1662年寛文元年)から1683年天和3年)まで館林藩領となったのち再び幕府領となり、1685年貞享2年)以降は幕末まで郡山藩領となった。1685年に宇都宮藩から郡山藩に転封された本多氏は近江国の51か村4万石を与えられ、その支配拠点として1693年元禄6年)に金堂村に陣屋を設置した。1724年享保9年)に藩主が柳沢氏に代わるが、金堂陣屋は1872年(明治5年)まで機能しつづけた。助郷制度では金堂村は中山道武佐宿に出役していた。

郡山藩は条里制の地割を基本として、金堂陣屋の三方に寺院(勝徳寺、弘誓寺、安福寺)を配し、その周囲に民家を配するという、陣屋を中心とする集落構成を形成した。これは現在の金堂町の集落構成の基盤となっている。

江戸時代の金堂村は東南出組・西南出組・中村組・新牧組・東北出組・西北出組・西出組の七つの村組に分かれ、村高も組ごとに分割されていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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