五代目円楽一門会
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「円楽党」の看板を掲げた若竹ビル(2009年12月撮影)三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である

五代目円楽一門会(ごだいめえんらくいちもんかい)は、5代目三遊亭圓楽の弟子とその一門による落語家団体。
概要・歴史

前身は1980年2月1日に5代目圓楽が一門弟子と共に設立した「大日本落語すみれ会」。1978年落語協会分裂騒動で5代目圓楽が師匠6代目三遊亭圓生と共に「落語三遊協会」を創設するも、翌1979年に圓生の死去により解散。6代目三遊亭圓生の直弟子たちは圓生の未亡人や遺族の仲介で落語協会に復帰するが、5代目圓楽およびその一門のみは復帰せず、単独で「大日本落語すみれ会」を結成した。落語三遊協会解散時の落語家のうち約半数が「すみれ会」に参加したことになるが、組織的なつながりはない。

1985年に「落語円楽党」と改名。1989年の寄席若竹閉場後いったん解散、「落語ベアーズ」を結成したが、1990年からは名称を「円楽一門会」へ変更[1]2009年の5代目圓楽の死去後は「五代目円楽一門会」となっている。

同団体は落語協会離脱の経緯から、鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場で定席興行を持つことが出来ず、代替として、1985年に5代目圓楽が私財を投じて寄席若竹を設立し、定席興行を行っていたが、様々な事情からわずか4年で閉鎖された。

現在は永谷商事が所有する「お江戸両国亭」で毎月1日から15日に「両国寄席」として一門の落語会を行っている。当興行は円楽一門会のほか、賛助出演という形で6代目円楽が「客員」として加入(後述)した落語芸術協会、ほぼ同じ経緯で落語協会を離脱した落語立川流に加え、上方落語協会、さらにはかつて所属していた落語協会所属の落語家・色物芸人も多数出演している(後述)。

このほか、亀戸梅屋敷でも「亀戸梅屋敷寄席」を開催。また浅草東洋館での東京演芸協会およびボーイズ・バラエティー協会の定席興行にも1?2名程度出演することがある[注釈 1]

前述の通り、都内4定席での興行を打つことはできないが、新宿末廣亭・浅草演芸ホールでは余一会として一門の特別興行を行うことがあり、特に近年では7月31日に行われる浅草演芸ホールでの余一会で「三遊落語まつり」と称して、円楽一門会と落語協会所属の圓窓圓丈一門による合同興行を行っている(三遊派#戦後も参照)。

長らく5大落語家団体の中で唯一女流落語家が存在しない。2022年に竜楽門下にたつみが入門して一門初の女流となったが、年内で廃業した。

2023年現在、他の落語家団体を退会後に円楽一門会門下に転籍した者はいるが、円楽一門会を退会した後に他の落語家団体門下に移籍した者はいない。

チラシの寄席文字・めくりなどは、寄席文字橘流の橘右女次が手がけている[2]
総帥の引退→死去とその影響

2007年、5代目圓楽が高座からの引退を表明して最高顧問となり、総領弟子・鳳楽が会長に就任し、これに「一門の幹部」として、好楽圓橘楽太郎(後の六代目円楽)を加えた4人による事実上の集団指導体制へ移行した。ただし、5代目圓楽自身は完全に落語界から消えた訳ではなく、その後もがんなどを患いながら後進の指導を主な活動とし、なおも影響力を保持していた。しかし、肺がん脳梗塞を再発し、最後の弟子である王楽の真打昇進から1か月も経たない2009年10月29日に死去した。

円楽一門会は、5代目圓楽と同様に落語協会から飛び出した7代目立川談志が率いる落語立川流と同様、中心人物である5代目圓楽の知名度とカリスマ性によって団体が維持されてきた面は否定できず、5代目圓楽が倒れた際には芸能マスコミなどで団体の存続について少なからぬ噂が飛び交うなどということも見られた。

その後、2009年11月21日東京會舘で行われた5代目圓楽の「お別れの会」の席で、従来からの「円楽一門会」を「五代目円楽一門会」(三遊亭鳳楽会長)とする方向でいることが明らかになった[3]

2010年3月には、楽太郎の6代目円楽襲名披露興行が桂歌丸会長(当時)率いる落語芸術協会の協力を得て、定席である新宿末廣亭などで行われ、6代目円楽のほか、鳳楽・好楽・圓橘などが出演した。同年10月28日の5代目圓楽一周忌において、円楽から歌丸に対して円楽一門会の落語芸術協会への合流の申し入れがされたが[4]、芸協内では人数の問題や寄席で修業していない落語家が加入する[注釈 2]ことに根強い反対意見もあり[5][6]、2011年6月の総会でも賛成派は歌丸と三遊亭小遊三だけであったため、否決された。

その後、2017年6月に6代目円楽が単身で芸協に「客員」として加入し、円楽一門会と並行して活動することとなった[6]。しかし、芸協との橋渡し役を担い、一門会の顔的な存在となっていた6代目円楽は奇しくも先代と同様に肺がんを発症して闘病生活に入り、さらに2022年1月に脳梗塞で倒れ、長期療養の末に同年9月末に死去した[7]

一門の中心として活動してきた6代目円楽を失ったことの影響から5代目圓楽の死去時同様に団体の存続に関するさまざまな噂も取り沙汰されたが、その一方で円楽の生前から落語芸術協会の興行に正式な協会員ではないが、円楽の代演あるいはゲストとして、好楽、愛楽王楽兼好萬橘などが出演する機会が多くなっている[注釈 3]他、好楽が落語協会の2023年2月中席の浅草演芸ホール・昼の部定席興行(かつての兄弟子である五代目春風亭柳朝の三十三回忌追善興行)に顔付けされるなど、団体内外の環境が大きく変化してきており、今後の円楽一門会の動向が注視される。
一門弟子の高座名

2023年7月現在、一門会所属の錦笑亭満堂(三遊亭好楽門下)を除き、所属全員の亭号が「三遊亭」である。

2023年7月1日より真打に昇進した三遊亭とむが「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}錦笑亭満堂(きんしょうていまんどう)」に改名したため、一門会では初の「三遊亭」以外の亭号を名乗る噺家が誕生した[注釈 4]

一門の弟子の高座名の傾向として、5代目圓楽門下と6代目円楽門下は「楽」の文字[注釈 5]、鳳楽門下は「鳳」の文字、好楽門下は「好」の文字、圓橘門下は「橘」ないしは「きつ」の文字がほぼ入っているというのが挙げられる。
出演場所
円楽一門両国寄席

前述の通り、円楽一門会はお江戸両国亭で毎月1日から15日まで「円楽一門両国寄席」を実施している。円楽一門会の事実上の定席興行であるが他の寄席と異なり、円楽一門会所属の噺家が日替わりで主任(トリ)を務める。また、賛助出演として一門以外の噺家・色物も出演しており(ただし、出演メンバーはほぼ固定されている)、基本の番組編成は落語七席と色物一席となる。正月三が日は特別興行となり円楽一門会の噺家がほぼ勢揃いする(色物のほか、ごく一部だが一門外の噺家も出演する)。昼夜通しで入れ替え制ではない。

2021年12月の興行は、コロナ禍の最中、興行の継続のために初めてオフィスまめかなの全面協力のもと、特別企画「?若竹から35年? 結集!!五代目円楽一門会 冬の両国寄席まつり」を開催した。「江戸の職人」「将棋」など日ごとにテーマを決め、それに因んだ演目を主任が務めた。日替わり対談ゲストに橘右橘寄席文字橘流[9]高野秀行(棋士)、大至(元大相撲幕内力士)などを招き、色物を除いた出演者は円楽一門会の噺家のみとなった。木戸銭も特別料金となり、通常興行と異なった[10][11]

日付テーマ主任・演目対談ゲスト
12月1日葛飾北斎三遊亭好楽「抜け雀」橋本光明(すみだ北斎美術館館長)
12月2日相撲三遊亭小圓楽阿武松玉海力(元大相撲幕内力士)
12月3日相撲甚句三遊亭圓橘「関取千両幟」大至(元大相撲幕内力士、相撲甚句歌手)
12月4日将棋三遊亭萬橘浮世床高野秀行日本将棋連盟棋士六段)


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