于山島
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于山島(うざんとう、ウサンド、???)は、1431年朝鮮で編纂された『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に記述されたものから、1908年に編纂された『増補文献備考』「輿地考」まで、朝鮮の数多くの歴史書や地図に登場している島。朝鮮半島の東、現在の鬱陵島周辺に描かれているが、実際のどの島に当たるかは分かっていない。「于山」という名称は1145年に編纂された『三国史記』に512年の史実として「于山国」という名称で記載されたものが最も古い。

現在、韓国では于山島を現在の竹島(独島)であるとしている。
概要

「于山島」が現れる古文献や古地図のひとつひとつに即して検討作業を加えれば、
明らかに鬱陵島を意味する場合

鬱陵島とは別の島を指す場合

現在の竹島(韓国名:独島)を指す場合

の3つに大きく分類できる[1]

韓国に現存する地図のなかでも古いものでは于山(島)は鬱陵島近傍の西、あるいは北に描かれることが多いが、これに比定できる島は存在しない。18世紀後半以降は鬱陵島の東に隣接して描かれるようになり、しだいに鬱陵島北東に隣接する現在の竹嶼付近に于山島を描いている。

鬱陵島は朝鮮政府にとっては辺境の遠隔地で渡航も難しく、1417年以降は入島・居住を全面禁止する「空島政策」をとっていた。安龍福の密航により鬱陵島の帰属が日本と朝鮮間の外交問題となった後、朝鮮政府は鬱陵島をたびたび調査を行った。これら調査で得られた知見により、于山島は鬱陵島の北東近傍に一つの島として描かれるようになった。日本では、鬱陵島と于山島の位置(方角、距離)、形状(1つの島)より竹嶼であるとする説が有力である[注釈 1]
『三国史記』(1145)における「于山国」三国史記』巻四「新羅本紀」。512年の記事。「于山国は溟州東方の海の島にあり、別名鬱陵島という」の記述がある。

1145年に編纂された朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』には、「512年6月に于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島という」とある。すなわち、「于山国」とは鬱陵島の別名である。韓国政府は、後年の『世宗実録』地理志に基づく韓国側の解釈をこの『三国史記』に遡及適用することによって、竹島は512年以降ずっと韓国領であると主張している。しかし、『三国史記』には鬱陵島以外の島のことは全く記されていない。なお、島の大きさについては、通常1里=400メートルで計算すると100里だと約40キロメートルとなるが、実際の鬱陵島より大き過ぎるので、ここでは短里の1里=80メートルが使われて8キロメートル四方であると考える方が自然である。
原文[3]

(※可読性向上のため空白を入れ、固有名詞以外は旧字体を新字体に変更。以下同様)『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀

十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊?異斯夫 為何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以討服 乃多造木偶師子 分載戦船 抵其国海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獣踏殺之 国人恐懼則降
翻訳
『三国史記』巻第四 新羅本紀 智証麻立干紀

智証麻立干)十三年(512年)夏六月、于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州(現在の江原特別自治道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島といい、百里(8q)四方ある。渡航が困難なことを恃みにして服従しなかった。何瑟羅州の軍主となった伊?の異斯夫が言うには、于山人は愚かで凶暴である。威嚇するのは難しいが計略をもってすれば服従させることができる。そこで木製の獅子の像を多く造り戦艦に分けて載せその国の海岸に着くと、誑かして「お前たちがもし服属しなければ、すぐにこの猛獣を放ち踏み殺させるぞ。」と告げると、于山国人は恐れ慄きすぐに降伏した。

6世紀初めに「于山国」が新羅に服属して朝貢関係にあったことは『三国史記』の記すところであるが、1022年(顕宗13年)頃まで用いられていた「于山国」の呼称は、この時期を最後に『高麗史』や『高麗史節要』などの文献資料から姿を消すようになり、このことについて、韓国の金柄烈(戦争法・国際法専門)は11世紀初頭の女真族の高麗侵攻の影響を挙げている[4]
15世紀の文献に登場する「于山」
『太宗実録』(1431)の流山国島と于山島

1431年に編纂された韓国の文献『太宗実録』の太宗十二年(1412年)の項に「流山国島」の名が現れる。その中で、江原道高城於津に漂着した白加勿らは「11戸60人余りが、武陵島から流山国島に移った。流山国島は、東西と南北がそれぞれ2息、周囲が8息で豆や麦が採れる」と観察使に証言している[4]。なお、1息は約12キロメートルであり、それによれば東西・南北それぞれ24キロメートル、外周が96キロメートルということになる。金柄烈は、白加勿らが生まれ育った「武陵島」を鬱陵島附属の竹嶼とみなし、移り住んだ「本島」すなわち「流山国島」を鬱陵島に比定している[4]。「流山国島」の流山は于山の発音を表記で充てたものと考えられるが、「武陵島」を鬱陵島とみなす前提に立てば「流山国島」に該当する島が周囲にないことが問題になる。これに先立つ1403年、太宗は倭寇を警戒し鬱陵島住民に本土へ移住するよう命じていたため(空島政策の始まり)、白加勿らは観察使の質問に架空の島を証言したのではないかという推測を生むわけである。金柄烈自身は、当時にあっては鬱陵島のことが「于山国島(その転訛として、流山国島)」、竹嶼のことが「武陵島」と呼ばれるのが、むしろ自然であったとしており、于山国島は独島ではなかったとしている[4]

鬱陵島は、はるか海上にあるので観察使が来ることが少なく、逆に兵役や税を逃れる者が本土より密かに移住したり、住民が倭寇を装い本土を襲ったりしたため、1416年政府は空島政策を堅持する方針を立て、その後鬱陵島住民を強制的に本土に引き上げさせている。

翌年の『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に于山島という名が初めて現れる[4]。そこには「按撫使の金麟雨が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と報告しており、住人の数や戸数より上記の「流山国島」のことを表していると考えられ、この于山島は鬱陵島の事を示していると考えられる[4]。ここでは「于山武陵島住民の刷出与出」が議論されており、「武陵の住民は刷出せず、五穀と農器を与えて生業を安定」させてほしいとの請願もあったところから、金柄烈は鬱陵島本島である「于山」を先に書き、属島竹嶼である「武陵」を後に書いたと推測している[4]。これについては、「按撫使の金麟雨は于山島から還り、‥‥」の部分を鬱陵島の傍らにある現在の竹嶼から還ったと解し、この于山島や流山国島はその竹嶼だとする解釈もある。いずれにせよ、ここでいう「于山島」が現在の竹島(韓国でいう独島)であるという解釈は、島の大きさや島内環境の記載からみて成り立ちようがない。
「流山國島」に関する原文[5]
『太宗実録』第二十三之四 十二年

○命議政府 議処流山國島人 江原道観察使報云 流山國島人白加勿等十二名 来泊高城於羅津 言曰 予等生長武陵 其島内 人戸十一 男女共六十余 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息 周回八息 無牛馬水田 唯種豆一斗出二十石或三十石 麦一石出五十余石 竹如大椽海錯果木皆在 焉窃慮此人等逃還 姑分置于通州高城扞城○
翻訳
『太宗実録』第二十三之四 十二年(1412年)
政府の命による流山國島人について、江原道観察使は、流山國島人の白加勿ら十二名が高城於羅津に来泊し「私達は武陵で育ったが、その島の内、十一戸の男女合わせ六十人余りが今この島(流山國島)に移住した。この島は、東から西までと南から北までそれぞれ二息(約24km)、周囲が約八息(約96km)、牛・馬・水田はなく、唯一豆が一斗から二十石あるいは三十石、麦は一石から五十石余り採れる。大垂木のような竹、海と錯覚する果実の木など色々ある。」と言っていると報告した。これよりこの人たちが逃げ帰るのを憂慮し、しばらく通州、高城、扞城に分け住まわせた。
「于山島」に関する原文[6]
『太宗実録』第三十三之四 十七年

○按撫使金麟雨 還自于山島 献土産大竹 水牛皮 生苧 綿子 検樸木 等物 且率居人三名以来 其島戸凡十五口男女并八十六 麟雨之往還也 再逢颶風 僅得其生○
翻訳
『太宗実録』第三十三之四 十七年(1417年)
按撫使の金麟雨は于山島から還り、土地の産物の大きな竹・水牛の皮・生芋・綿子・アシカ等を献上し、また島民三名を率いてきた。その島の戸数はおよそ十五、男女併せて八十六人。麟雨が行って還る時、再び嵐に遭い、何とか生き延びた。
『高麗史』(1451)の于山島

1451年に完成した『高麗史』に、「鬱陵島は県のちょうど東の海にある。新羅のとき于山国と称した。一説に武陵や羽陵とも言われ、百四方ある。……一説には、于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。」と于山島の記述が見られる。韓国側の見解では、晴れていれば鬱陵島から竹島が望めるので、この于山島を独島(竹島)と考えるのが自然だとする。一方日本側の見解では、現在の竹島のような、遠く離れた無人の小島の名に国名を使う訳がないとする。この文章の表題は鬱陵島となっており、また問題の一文では于山島と武陵島を同格に表現しているが、本文は全て鬱陵島の内容で、現在の竹島を示すような内容は書かれていない。鬱陵島周辺には鬱陵島と同程度の島は存在しないが、『太宗実録』に86人が住む于山島の証言があるため、編者は二島である可能性を捨てきれず、一説として問題の一文を書いた可能性が高い。これらのことから、日本では、朝鮮王朝が鬱陵島近辺の地理を掌握しておらず、架空の于山島から見た武陵島、武陵島から見た于山島、あるいは朝鮮本土から見た于山・武陵(鬱陵島)のことを風説に基づき書いたと考えられている。
原文[7]
『高麗史』巻五十八 地理三

欝陵島
在県正東海中 新羅時 称于山国 一伝武陵 一伝羽陵 地方百里 智證王十二年 来降太祖十三年 其島人 使白吉 土豆献方物 穀宗十一年 王聞欝陵地広土肥 旧有州県 可以居民 遣溟州道監倉金柔立 往視 柔立回奏云 島中有大山 従山頂 向東行至海一万余歩 向西行一万三千余歩 向南行一万五千余歩 向北行八千余歩 有村落基址七所 有石仏鉄鐘石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石 民不可居 遂寝其議 一云 于山 武陵 本二島 相距不遠 風日清明則可望見
翻訳
『高麗史』巻五十八 地理三


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