この項目では、鎌倉時代の武士について説明しています。「行光」と誤伝された室町幕府政所執事(貞衡の子・行広の養子)については「二階堂行元」をご覧ください。
凡例二階堂行光
時代平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕長寛2年(1164年)
死没承久元年9月8日(1219年10月17日)
幕府鎌倉幕府 政所執事
主君源実朝
氏族藤原南家乙麻呂流 二階堂氏
父母父:二階堂行政
兄弟行村、行光
子行盛
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二階堂 行光(にかいどう ゆきみつ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての御家人・鎌倉幕府政所執事。 長寛2年(1164年)、二階堂行政の子として誕生。兄に行村がいる。 建保6年(1218年)に源実朝が右大臣となるが、『吾妻鏡』12月20日条にはその関連記事として政所始めが記されており、「右京兆並びに当所執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・・・」と、北条義時[1]の次席で政所の実務官僚の筆頭として登場する。 この時代は源実朝の時代であるが、実権はその母の北条政子にあり、ちょうど朝廷における天皇と院政の関係にも似ている。行光は尼将軍・政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の『吾妻鏡』承久元年(1219年)2月13日条に「寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮・冷泉宮両所の間、関東将軍として下向せしめ御うべきの由、禅定二位家申せしめ給うの使節なり。」とあり、政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもその際の行光について記されている。 このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務は行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くは行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている。 行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が元仁元年(1224年)の伊賀氏の変で流罪となったあと、行光の子・二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する。
略歴
脚注^ 右京兆は右京権大夫の唐名で、このときは北条義時が該当。
出典
五味文彦 『増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年)
細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)
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