二階堂氏
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二階堂氏
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}三つ盛亀甲に花菱(みつもりきっこうにはなびし)
本姓藤原南家乙麻呂
家祖二階堂行政
種別官人
武家
高家
出身地鎌倉永福寺周辺
主な根拠地相模国鎌倉郡二階堂村
陸奥国岩瀬郡須賀川
著名な人物二階堂行政
二階堂行村
二階堂行光
二階堂行盛
二階堂行泰
二階堂行頼
二階堂行実
二階堂行綱
二階堂頼綱
二階堂行忠
二階堂行貞
二階堂行藤
二階堂貞衡
二階堂貞藤
二階堂時綱
二階堂行朝
二階堂行通
二階堂盛義
二階堂衛守
二階堂進
支流、分家藤原南家乙麻呂流為憲流二階堂氏流大谷氏男爵(武家)
藤原南家乙麻呂流為憲流二階堂氏流泉田氏(武家)
薩摩二階堂氏(武家)
藤原南家乙麻呂流為憲流二階堂氏流六郷氏子爵(武家)
宇多源氏扶義流[1]佐々木氏庶家藤原南家乙麻呂流為憲流二階堂氏流佐々木氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

二階堂氏(にかいどうし)は、日本氏族
概説

下級貴族官人)、軍事貴族武家)、名門高家)、幕府官僚(幕臣)の一氏族。特に陸奥国岩瀬郡須賀川を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名である。

二階堂氏は藤原姓で、藤原南家乙麻呂工藤氏の流れである。工藤行政は文官として源頼朝に仕え、建久3年(1192年)11月25日に建立された永福寺(二階建ての仏堂があった)の周辺に邸宅を構えた為、二階堂氏を称したという。行政には行光行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府政所執事に任命され、一時親族の伊賀光宗が任じられた以外は二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代中期に信濃流嫡流の執事の相次ぐ急逝によって信濃流庶流や行村を祖とする「隠岐流」を巻き込んだ執事職を巡る争い[注釈 1]が発生し、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった[2]

二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府・建武政権・室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を出した。喜連川藩の家老であった二階堂氏は元は上総国椎津城を与えられた鎌倉府の家臣で、小弓公方成立時にその傘下に入りそのまま喜連川氏に従った椎津二階堂氏の出身であるが、鎌倉府に仕えた二階堂氏の系統が複数あるため、どの系統につながる二階堂氏かは不明である[3]
隠岐流二階堂氏

鎌倉時代の二階堂行政の子・行村の流れで鎌倉時代中期から建武政権、室町幕府にかけて執事評定衆検非違使高家として活躍した。細かく分けると、行村の子である元行を祖とする「隠岐家」[4]、同じく行村の子である行義を祖とする「出羽家」[5]、同じく行村の子である行久を祖とする「常陸家」[6]、同じく行村の子である行方を祖とする「和泉家」[7]、行義の子である行有から分かれた「備中家」(広義の「出羽家」に含まれる)[8]に分けられる。

嫡流であった隠岐家は霜月騒動の影響で衰退し、本拠地を薩摩国に移して薩摩二階堂氏に発展する[9]。薩摩二階堂氏の傍流は伊勢国深矢部郷に移り、室町幕府の奉公衆となっている。

これに対して、鎌倉時代末期の備中家当主である二階堂貞藤は政所執事としての活躍の他、吉野攻撃の総大将など武将としても活躍した。幕府滅亡後に赦免され建武政権で登用されたが、間もなく謀反の疑いで貞藤を含めた備中家のほとんどが処刑されて没落した。貞藤の兄の時藤の系統は足利尊氏に従って、成藤と行種が鎌倉府の政所執事となった。長禄4年(1460年)4月28日、将軍足利義政が御内書を下した須賀川二階堂氏の藤寿はこの系譜と推定される[10]。出羽家と常陸家も貞藤一族の粛清に巻き込まれ[11]、和泉家は観応の擾乱足利直義に最後まで従って没落している[7]
信濃流二階堂氏

鎌倉時代の二階堂行政の子・行光の流れで、行盛の代から政所執事を独占した。相次ぐ当主の急逝や隠岐流に執事職を奪われたことで衰退するが、室町時代になると再び勢いを取り戻し、室町幕府の政所執事や評定衆として活躍した。細かく分けると、行盛の子である行泰を祖とする「筑前家」[12]、同じく行盛の子である行綱を祖とする「伊勢家」[13]、同じく行盛の子である行忠を祖とする「信濃家」[4]に分けられる。

3家とも鎌倉幕府の滅亡や観応の擾乱で足利直義方に付いたことで大きな打撃を受けたが、赦された後は勢力を持ちなおして、康安元年(1361年)の畠山国清失脚後は、行春(筑前家)、行詮(伊勢家)、氏貞(信濃家)らが、隠岐流の行種(備中家)と持ち回りで鎌倉府の政所執事に就任し、永享の乱による鎌倉府崩壊まで執事職を独占した[14]。足利持氏期に執事を務め、その使者としてたびたび室町幕府と交渉した二階堂盛秀は系譜不明であるが、信濃守の受領名から伊勢家の行朝の系統と推察される[15]

京都にいた信濃家の二階堂行直(高衡)・行元兄弟は政所執事を務めた。行元は叔父の高貞(行広)の養子となり、観応の擾乱では足利直義に従ったが、やがて京都に復帰する。政所執事は後に伊勢貞継に奪われたものの、子孫は評定衆として定着する[16]。行元の系統は忠広(元栄)・之忠・忠行と継承され、忠行の代に再び政所執事となる。これは足利義政の元服を足利義満の先例を元に行おうとした際に、義満元服時の政所執事が二階堂行元であったことから、今回も二階堂氏の政所執事が相応しいと言う意見が出たことによる(当時の伊勢氏と二階堂氏は縁戚関係にあり、長く執事職を独占してきた伊勢氏が忠行に執事を譲ることを同意したのも大きい)[17]。忠行の子である二階堂政行は足利義尚の腹心として伊勢氏・摂津氏と権勢を争った。


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