二見氏_(大和国)
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二見氏

本姓源氏?
種別武家
主な根拠地大和国宇智郡二見郷
著名な人物二見光遠
二見密蔵院
凡例 / Category:日本の氏族

二見氏(ふたみし)は、日本氏族のひとつ。大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)を本拠とする武士で、南北朝時代からその活動が見える。
出自

二見氏は大和国宇智郡二見郷(二見庄とも。現在の奈良県五條市二見[1])を本拠とする国人[2]

起源については、豊井庄[注釈 1]荘官としてこの地にやってきた東大寺興福寺、または金峯山寺とも[4]後醍醐天皇に従い大和に来た美濃源氏の武士とも[5]、宇智郡宇野庄[6]の宇野氏らと同じ大和源氏であるともいわれ[7]、諸説ある。
歴史
南北朝時代

二見氏の活動は南北朝時代より見られる[8]

延元元年/建武3年(1336年)に後醍醐天皇が吉野山に遷幸してくると、南朝方は河内国への出口となる宇智郡を確保したとみられ、宇智郡内の武士のほとんどは南朝に従ったと考えられる[9]。二見氏で初めに名を揚げた二見光遠(弥徳丸、左衛門尉遠江守)も南朝へと属し、延元2年/建武4年(1337年)5月、後醍醐天皇より美濃国大榑庄地頭職三分一を宛行われた[10][注釈 2]。その後光遠は、正平6年/観応2年(1351年)に紀伊国布施屋郷地頭職半分を得[11]文中3年/応安7年(1374年)に和泉国久富名を、元中4年/嘉慶元年(1387年)に河内国讃良郡内の土地を与えられ、この頃に没したとみられる[12]

光遠の嫡男とみられる光長は、正平10年/文和4年(1355年)に左衛門少尉に任じられ、天授2年/永和2年(1376年)に縫殿助[注釈 3]、元中3年/至徳3年(1386年)頃までに越後守となった[13]。光長は元中3年/至徳3年(1386年)に紀伊静川庄領家職を宛行われ、元中7年/明徳元年(1390年)に和泉国召次朝用分を与えられる[12]。その後死去したか北朝に走ったためか、元中9年/明徳3年(1392年)にその遺領が吉野天河弁才天社に寄進された[12]

光長の嫡子は天授4年/永和4年(1378年)に左衛門尉になった光家で、明徳4年(1393年)に見える光門が光家の子とみられる[12]。光門はその年、大日寺領の知行を認められている[14]応永5年(1398年)には光吉が惣領となっており、光吉は応永15年(1408年)に左衛門尉となった[12]。その後時代は下り、延徳4年(1492年)の惣領・遠江守光秀と、その子とみられる左京亮光遠の名が知られる[15]
興福寺と畠山氏の下で

元中9年/明徳3年(1392年)、南北両朝は合体[16]。応永2年(1395年)より、興福寺一乗院門跡が宇智郡を領することとなったが[17]、河内や紀伊の守護となった管領家畠山氏も宇智郡へ進出し、その勢力を及ぼしていた[18]。こうした中で、二見氏は一乗院門跡から国民の称を与えられ、坊人へと起用されている[19]

応永16年(1407年)、畠山満家が宇智郡須恵庄[3]を河内観心寺に寄進しており、宇智郡は畠山氏の守護領国に組み込まれたといえる状況となっていた[20]長禄4年(1460年)には畠山義就が宇智郡木原庄[21]内の土地を観心寺に寄進するなど、宇智郡への進出度合を強めており、二見氏は興福寺一乗院と畠山氏に両属することとなった[22]

寛正5年(1464年)、二見氏と宇野氏の間で田地を巡る争いが起こっている[23]。二見氏が宇野庄内部に作職を持っていたことによるが、興福寺衆徒であり幕府要人にも親しい成身院光宣がこれを調停し、二見氏の持つ作職と宇野氏が二見庄内に持つ作職を交換するという決定が出された[23]。しかしこれに関しては宇野有治が不承知のままだったとみられる[23]
両畠山氏の争いとそれ以後の二見氏

15世紀半ばより畠山義就と政長の争いが激しくなると、宇智郡の武士たちも義就方と政長方に分かれ、二見氏は義就方となった[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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