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やノートページでの議論にご協力ください。二藤部 冬馬(にとうべ とうま、1982年(昭和57年)1月18日 - )は、日本の政治家、音楽家、ボカロP、元教師、元劇団員。山形県大石田町出身。
2019年より同町議会議員[1][2]。身長167cm、体重57kg。血液型O型。 19歳のころ、所属していた俳優養成所のメンバー数名と「劇団SOS」
略歴
24歳の時、インディーズレーベルのキラキラレコードの目に留まり、CDを発売[3]。東京・山形・大阪などでライブ活動を行う。28歳のころ、自分が演劇や音楽活動の中で感じた社会や世の中を、これからの子供たちに伝えたいと考えるようになり、大学に通い始める。中学・高校の英語の教員免許を取得し、32歳より公立中学校の教員となる。学級担任も担い卒業生も輩出し、順風満帆に教員生活を送っていたが、2019年、近隣首長らの声がけもあり、地元で議会議員選挙に出馬し当選した[4]。長時間労働、パワハラなど教育現場を始めとする労働環境の改善を訴える。また、VOCALOID作品の発売も続けている[5]。 旗揚げした劇団「SOS」 劇団脱退後、本格的にライブ活動や制作活動に移る。脱退後も、劇団SOSには音響として協力したり、客演として出演したこともあった。 ライブスタイルは、一人でシンセサイザーを3、4本、ステージに持ち込み、演奏するというものであった。一人でもライブができるようにするため、マルチトラック・レコーダーなどの機材も集めていた。搬入・搬出も自分一人で行い、運搬にはタクシーなども使用していた。使用機材はヤマハ製が多く、本人が言うには「ヤマハのピアノの音が一番好きだ」という理由からである。音源の制作は、作曲、編曲、録音、ミキシングまで全て本人が行っていた。 ライブ活動と同時に、インターネットを用いて楽曲の公開なども積極的に行っていた。当時ヤマハが運営していたプレイヤーズ王国等の、器楽曲部門では、上位を獲得していた。 しばらくライブ活動等を行っていると、レコード会社から声がかかるようになる。最初に声をかけたのは、インディーズレーベルのキラキラレコードであった。何とも言えない不思議な器楽曲に心を打たれた社長は、オーディションを兼ねた、主催のライブ「Kirakira Night」に出演することを提案した。「Kirakira Night」出演後、レーベルのオムニバスアルバム「INFECTIOUS BOUTIQUE」
劇団時代
ソロ活動・CD発売
アルバム発売に向けて、音源の編集、都内・地方でのライブ活動、CDショップでの営業活動などが激化していた当時は30時間眠らないことが多々あったが、2006年6月25日に、ソロアルバム「LUNALIAN」が発売された。