二葉あき子
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二葉 あき子

基本情報
出生名加藤 芳江
生誕 (1915-02-02) 1915年2月2日
出身地 日本 広島県広島市
死没 (2011-08-16) 2011年8月16日(96歳没)
学歴東京音楽学校
活動期間1936年 - 2003年
レーベルコロムビア

二葉 あき子(ふたば あきこ、1915年2月2日 - 2011年8月16日)は、日本の女性歌手
来歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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広島駅のすぐ北側、広島県広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。本名は加藤芳江[1]

広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)を経て、1935年東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。

レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。

1936年春、コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」「乙女十九[※ 1]」などで世に知られ1939年松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。この曲でブルースを歌う自信をつけ、以後多くのブルースをヒットさせるようになった。戦時中は歌手として慰問活動をする。

戦時下の1943年、結婚し一男をもうけるがすぐに離婚。その後は自立する女として生きたが息子の非行に悩むことになった。しかし、やがては息子の作になる曲を孫のピアノ伴奏で歌う幸せも得た。

1945年8月6日、帰郷のため広島から芸備線汽車に乗り、汽車がトンネルに入っている際に原子爆弾が投下され、汽車がトンネルを出たところで、きのこ雲と落下傘を見たという。被曝はしたものの、トンネル内であったため原爆による直接の被害は免れた。

戦後になると、「別れても」「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「さよならルンバ」「村の一本橋」など多くのヒット曲を放った。1950年の「水色のワルツ」は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いをあたえた。

日劇では同じコロムビアの淡谷のり子笠置シヅ子渡辺はま子らとよくステージに立った。

NHK紅白歌合戦にも1951年の第1回から1959年の第10回まで10回連続出場した(詳細は下記参照、NHK紅白歌合戦の前身となる紅白音楽試合にも出場している)。


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