二流の人_(小説)
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二流の人
作者
坂口安吾
日本
言語日本語
ジャンル中編小説
発表形態雑誌掲載+書き下ろし
初出情報
初出「黒田如水」(のち「第一話 小田原にて」の「一」「二」)-『現代文學』1944年1月号(第7巻第1号)
「第一話 小田原にて」の「三」-書き下ろし
「第二話 朝鮮で」-書き下ろし
「第三話 関ヶ原」-書き下ろし
短編「我鬼」(のち「第二話 朝鮮で」の「三」改訂版)-『社会』1946年9月・創刊号
刊本情報
刊行九州書房 1947年1月30日
思索社 1948年1月(改訂版)
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『二流の人』(にりゅうのひと)は、坂口安吾中編小説黒田官兵衛(黒田如水)を主人公とした歴史小説である。「第一話 小田原にて」「第二話 朝鮮で」「第三話 関ヶ原 」の全3章から成る。権謀術数にかけては人に譲らないほど秀でていたが、二流の武将に甘んじた黒田如水を独自の目線で捉えた作品で[1][2]、その後に書かれた他の安吾の歴史小説の根幹をなす作品ともなっている[3]

豊臣秀吉徳川家康石田三成ら、四囲の情況が自然に天下を望む自分の姿を見出すまでは野望を持たず、自己を突き放したところに自己の創造の発見を賭けた「芸術家」としての天下人と、戦略にたけた野心児であったが時代に取り残され、どさくさに紛れて天下を望む「二流の人」として人生を終えた黒田如水とが対比的に描かれ[4]戦国英雄たちの個性が、戯作的な文体講談風の語り口で表現されている[5]
発表経過

1944年(昭和19年)、雑誌『現代文學』1月号(第7巻第1号)〈前年12月28日発行〉に「黒田如水」(のち「第一話 小田原にて」の「一」と「二」)が掲載され[6]、「黒田如水」の続編(「第一話 小田原にて」の「三」以降と、「第二話 朝鮮で」と「第三話 関ヶ原」)を書き下ろしで追加した『二流の人』が、戦後の1947年(昭和22年)1月30日に、火野葦平が主宰する出版社・九州書房より「中篇小説新書」の一冊として単行本刊行された[7]

その後、「第二話 朝鮮で」の「三」の部分を、短編『我鬼』の内容と組み換えた改訂版が1948年(昭和23年)1月に思索社より刊行された[7]。『我鬼』は1946年(昭和21年)9月、雑誌『社会』 創刊号に掲載されたものである[8][注釈 1]。なお、1998年(平成10年)刊行の『坂口安吾全集 4』(筑摩書房)には、初出稿の九州書房版が収録され、別途に『我鬼』も収録されている。文庫版は角川文庫白痴・二流の人』で刊行されている。角川文庫は思索社版(改訂版)である。
執筆背景

1940年(昭和15年)の35歳の時に小田原に移り住んだ安吾は、三好達治から切支丹文献を薦められ、それ以来切支丹ものや歴史に興味を抱きはじめ、独特の文明論的歴史観を展開するようになった[3]。雑誌に掲載された「黒田如水」は、『島原の乱雑記』(長編小説『島原の乱』の構想)の執筆過程の副産物ともいうべき作品の中では最大のものである[6]。安吾が書いたその他の時代小説には、『織田信長』『信長』『家康』『梟雄』『狂人遺書』などがあり、『二流の人』はこれらの根幹をなす作品ともなっている[3]
文体・作風

『二流の人』には、もともと安吾のなかで蠢いていた想像力と戯作的な文体が表現されており、講談大衆文学の語り口がごく自然なかたちで、その文体と思考のなかを横切っていると上野俊哉は解説し[5]、そういった「講談や大衆文学の色合いの影響が残る文体」を駆使しながら、日本の戦国時代英雄たちを「マンガチック」に描いた作風は「ライトノベル的」だとしている[5]。また、その武将たちの「キャラクター」の描き方は、隆慶一郎の小説や、これを原作とした原哲夫漫画を思わせると上野は説明している[5]
あらすじ

黒田如水(官兵衛)は、その昔まだ20歳を越して幾つでもない頃、中国の小豪族小寺政職家老をしていたが、小寺氏は、織田毛利の両雄にはさまれ去就に迷っていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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