二条藤子
[Wikipedia|▼Menu]

二条藤子
日本国国母(明朝)
続柄後醍醐天皇側室・日本国王良懐母

身位
従三位
出生永仁元年(1293年)以降 - 正安2年(1300年)以前

死去正平6年/観応2年3月29日1351年4月25日

埋葬霊牌:肥後国悟真寺(熊本県八代市
配偶者後醍醐天皇
子女懐良親王(日本国王良懐)
家名藤原北家御子左流二条家
父親二条為道
母親不明(飛鳥井雅有女の飛鳥井経子?)
役職二条関白女房(関白二条道平の女房)
中宮宣旨中宮西園寺禧子の筆頭女房)
テンプレートを表示

二条 藤子(にじょう とうし/ふじこ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女官歌人。歌聖藤原定家嫡系子孫で、二条派当主の二条為定の妹。後醍醐天皇中宮西園寺禧子中宮宣旨(筆頭女房)。また、後醍醐の側室ともなり、南朝征西大将軍懐良親王をもうけた。懐良はから日本国王に冊封されたため、藤子は明史における日本の国母でもある。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集。

二条藤子は13世紀末、貴族・歌人の二条為道の娘として誕生したが、父は夭折した。長じて、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)ごろまで、関白二条道平女房(上級女性使用人)として仕えた。元応元年(1319年)、中宮に冊立された西園寺禧子の宣旨に抜擢された。中宮宣旨とは、中宮仕えの「宮の女房」を率いる最高職で、いわば中宮の第一秘書とも言える腹心であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍(女官長)にほぼ相当する職責を持ち、家格・知性・実務・教養いずれも傑出した女性から選ばれた。この頃、藤子は女性の官僚として最高位の一つに登っただけではなく、元応2年(1320年)に奏覧された『続千載和歌集』に1首が入集し、勅撰歌人となった。

藤子は、二条派の大歌人にして後醍醐の親王時代の正妃である二条為子からは姪に当たる。早逝した為子の縁者ということもあってか、後醍醐からは中宮禧子および同僚で中宮内侍阿野廉子に次ぐ寵愛を受けた。元徳元年(1329年)ごろ、藤子は後醍醐との間に、懐良親王をもうけた。また、中宮お抱えの官僚である宣旨ながら、正規の妃である女御(中宮の次位)相当の位階である従三位に叙された。後醍醐と鎌倉幕府との戦い元弘の乱1331年 - 1333年)が始まり、元弘2年/正慶元年(1332年)に後醍醐が隠岐に流されると、主君の禧子同様、落飾(出家)して仏門に入った。南北朝の内乱1336年 - 1392年)が始まると、延元3年/暦応元年(1338年)に、皇子の懐良は推定数え10歳で征西大将軍に任じられ、九州へ出征した。これが母子の今生の別れとなった。室町幕府の内紛である観応の擾乱の最中、正平6年/観応2年(1351年)春に、藤子は病により数え52歳以上で薨去した。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}慈愛に溢れ心優しい人物で[独自研究?]、死の床で詠んだ辞世の歌でまで、九州で戦う息子の身を案じ続けた。子の懐良もまた幼くして別れた父母を思慕し続け、冥福を祈ってたびたび写経などの奉納を行った。懐良の生存が確認できる現存最後の史料は、懐良が藤子の三十一回忌のために奉納した宝篋印塔である。藤子と後醍醐の霊牌は、懐良の菩提寺である熊本県八代市悟真寺に設置され、親子三人揃って供養を受けている。
経歴
系譜

二条藤子は、鎌倉時代末期、貴族である左中将二条為道の娘として生まれた(出自の詳細な議論は#懐良母=二条藤子の比定を参照)。御子左流二条家は、歌聖藤原定家の嫡系子孫で、為道の父(藤子の祖父)の二条為世も当時の歌壇の大御所だった(のち『新後撰和歌集』『続千載和歌集』の撰者)。為道は為世の嫡男であり、その和歌の実力も高かった[1]。しかし、家督を継ぐ前に、正安元年(1299年5月5日に数え29歳で夭折した[1]。したがって、藤子の生年の下限は、正安2年(1300年)である。また、生年の上限については、『増鏡』「久米のさら山」では、夭逝した父に代わって為世の後を継いだ二条為定が、藤子の兄とされているため[2]、為定が出生した永仁元年(1293年[3]である。姉妹間での長幼の順序については、『尊卑分脈』(14世紀末)は、大納言局(藤子)を三姉妹の長女としている[4]

藤子の実母は不明だが、『新千載和歌集』に、「後宇多院宰相典侍」つまり為道の正室である飛鳥井経子(飛鳥井雅有女)[5]との贈答歌が残る(『新千載和歌集』雑下・2049[6]および2050[7])。親しさからすれば実母の可能性もある。

藤子の兄弟には、先述の為定や、土御門雅長室(土御門顕実母)らがいる[8]
前半生

藤子は、『尊卑分脈』では、はじめ二条関白女房(女官)を務めていたと記載される[4]。紛らわしいがこの摂関家九条流二条家は、藤子の属する御子左流二条家とは同名別家である。この二条関白を二条道平とすれば、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)のことである[9]

その後、藤子は、後醍醐天皇中宮(正妃)である西園寺禧子元応元年8月7日1319年9月21日)中宮冊立)に、宣旨として仕え始めた[10]

宣旨というのは、公家社会の上級女性使用人である女房の最上位で[11]、主の第一秘書とも言うべき腹心である[12]。宣旨の中でも、中宮宣旨は家格・知性・実務・教養の全てがその時代で最高峰の女性から選ばれた[13]。天皇付きの女房を「上の女房」(公的な官職である後宮十二司を含む)と言うのに対し、中宮付きの女房を「宮の女房」と言い[14]、「宮の女房」の筆頭が中宮宣旨である[15]。中宮宣旨は、「上の女房」の筆頭である典侍と協調して行動することも多かった[13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef