二条良基
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 凡例二条 良基
二條良基像
時代南北朝時代
生誕元応2年(1320年
死没嘉慶2年/元中5年6月13日1388年7月16日
諡号後普光園院
官位従一位摂政関白太政大臣
主君後醍醐天皇光厳天皇後醍醐天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族二条家
父母父:二条道平、母:西園寺婉子
兄弟良基、良忠、九条経教、富小路道直、栄子
土岐頼康の娘
師良師嗣一条経嗣
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二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側

二条 良基(にじょう よしもと)は、南北朝時代公卿歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政関白太政大臣二条家5代当主。最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度[注釈 1])にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。
生涯
関白就任まで

嘉暦2年(1327年)、8歳で元服して正五位下侍従となり、わずか2年で従三位権中納言に昇進する。ところが13歳の時、元弘の乱が発生して後醍醐天皇隠岐島に配流され、内覧であった父・道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われた。このため、二条家鎌倉幕府より断絶を命じられる[1]状況に追い込まれたが、翌年に鎌倉幕府が滅亡、京都に復帰して 建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕える。二条道平は近衛経忠とともに内覧・藤氏長者として建武政権の中枢にあり、新政が実質上開始された元弘3年(1333年)には姉の栄子が後醍醐天皇の女御となり、良基も14歳で従二位に叙された。

ところが、建武2年(1335年)に父・道平が急逝、翌建武3年(1336年)には足利尊氏によって政権を追われた後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝(吉野朝廷)を成立させる。叔父の師基は南朝に参じたが、この年17歳で権大納言となっていた良基もまた天皇を深く敬愛していたにもかかわらず、後見であった曽祖父師忠(実は大伯父)とともに京都にとどまり、北朝の光明天皇に仕える。なお、師忠・良基いずれの意向かは不明であるが、足利将軍家が擁する光明天皇の元服・践祚の儀式が行われたのは、二条家の邸宅であった押小路烏丸殿である[2]

光明天皇もこれに応えるべく、 暦応元年/延元3年(1338年)には良基に左近衛大将を兼務させ、その2年後に21歳で内大臣に任命している。内大臣任命の前年には母を、任命の翌年には曽祖父・師忠を相次いで失うが、その間にも北朝の公卿として有職故実を学ぶとともに、朝儀・公事の復興に努めた。康永2年(1343年)、右大臣に任命されるが、同時に左大臣には有職故実の大家で声望の高い閑院流洞院公賢が任じられた。一条経通鷹司師平と前現両関白はともに公賢の娘婿であり、良基と公賢は北朝の宮廷において長く競争相手となる。康永4年/興国6年(1345年)には、当時左大臣である公賢が慣例的に一上と認められていることに、良基が一上補任の宣旨が無いことを理由に異議を挟み、自らがその職務を務める意思を示している(『園太暦目録康永2年5月18日条・『師守記』同年7月17日条)。これは、公賢から朝儀・公事の復興の主導権を奪って自分が朝廷再建の中心に立とうとする積極的な意思表明であった。なお、この年には良基最初の連歌論書である『僻連抄』が著されている[3]
関白在任と正平一統

貞和2年/正平元年(1346年)2月29日、27歳で光明天皇の関白・藤氏長者に任命され、2年後の崇光天皇への譲位後も引き続き留任した。同時に治天の君であった光厳上皇院評定の一員であり、朝儀・公事の復興に積極的に努めたが、摂関家における正統な有職故実を継承すると自負する良基の自説のこだわりは強く、崇光天皇の即位式の次第を巡って光厳上皇や洞院公賢らと衝突し、公賢からは良基の故実学は「偏執」であると難じられた(『園太暦』別記)[4]

だが、足利氏の内部抗争から観応の擾乱が起こり、観応2年/正平6年(1351年)に足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、11月7日に北朝天皇や年号が廃止され、良基も関白職を停止される。更に光明・崇光両天皇期の任官を全て無効とされて、良基は後醍醐天皇時代の従二位権大納言に戻される一方、公賢は改めて左大臣一上に任命された。南朝では既に二条師基が関白に任じられており、良基の立場は危機に立たされた。良基は心労によって病に倒れたが、それでも 御子左流の五条為嗣とともに南朝の後村上天皇に拝謁を計画する(『園太暦』正平7年2月26日条)など、当初は南朝政権下での生き残りを視野に入れた行動も示した[5]

ところが、正平7年(北朝としては「観応3年」、1352年)に、京都を占領した南朝軍が崇光天皇・光厳・光明両上皇、皇太子直仁親王を京都から連行すると、足利義詮は和議を破棄、同時に公賢が構想していた直仁親王を後村上天皇の皇太子にすることで両統迭立を復活させる和平構想(『園太暦』観応2年12月15日・17日条)も破綻した。そのため、義詮は光厳上皇の母西園寺寧子(広義門院)を治天に擬し、その命によって新たに崇光の弟弥仁王(後光厳天皇)を擁立して北朝を復活させる構想を打ちたてる。これはかなり無理のある方法であり、乏しい正統性を補強する必要もあって、義詮は良基を関白に復職させようとする。足利将軍家の意向と勧修寺経顕の説得を受ける形で、6月25日に良基は広義門院から関白「還補」の命を受け、2日後に昨年の南朝側による人事を無効として崇光天皇在位中の官位を戻した。なお、前年11月7日から6月25日までの期間に南朝側によって行われた良基に対する措置を有効として関白解官→前関白の関白還補(再任)とみる(この場合、南朝の師基が同期間の関白として扱われる)か、これを無効として職権遂行が不可能な状況下で関白在任が継続されたとみるかによって良基の通算在任回数の数え方(計5度か計4度か)が変わることになる。良基は勧修寺経顕や松殿忠嗣ら側近とともに北朝の再建に尽力する。だが、朝廷では三種の神器のない天皇の即位に対して異論が噴出した。その際、良基は「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったとされる(『続本朝通鑑』)。この過程で和平構想に失敗した公賢とその縁戚である一条経通・鷹司師平らの政治力は失墜し、政務は年若い新帝や政治経験の無い広義門院を補佐する形式で良基とその側近達及び九条経教近衛道嗣ら新帝支持を決断した少数の公卿らによって運営していくことになる[6][7]

だが、翌文和2年/正平8年(1353年)には、南朝側の反撃によって京都陥落の危機が迫ると、足利義詮は後光厳天皇を良基の押小路烏丸殿に退避させ、そのまま天皇を連れて延暦寺を経由した後美濃国土岐頼康の元に退去していった。良基は体調の悪化もあり、 坂本から嵯峨中院の山荘に引き籠った。この間に押小路烏丸殿を占拠した南朝軍は良基を後光厳天皇擁立の張本人として断罪し、同邸に残された二条家伝来の家記文書は全て没収されて叔父師基の元に送られた(『園太暦』文和2年7月11日条)。ところが、そのような状況下で7月20日頃に良基は病身を押して後光厳天皇のいる美濃国小島へと旅立った。これについて、洞院公賢によれば最初に小島に駆けつけた摂関家を新しい関白にするという噂があることを記している(『園太暦』文和2年8月5日条)。もっとも、良基よりも先に駆けつけた近衛道嗣が関白に任じられることは無かったことから、事実とは異なるようである。27日には先に小島にいた叔父の今小路良冬に迎えられた良基は翌日に天皇に拝謁した。9月3日には垂井に移った天皇や良基を迎えに尊氏が到着し、10月21日に京都に復帰した(この行幸の際に書かれた仮名日記が『小島のすさみ』である)。後光厳天皇は以後、良基と道嗣を重用するようになり、京都に留まっていた経通や公賢は二心を疑われていよいよ遠ざけられた。文和3年/正平9年(1354年)暮にも南朝軍が京都を占領して、天皇や良基は近江国に退避したが、これは短期間に終わった。ただし、その前後からの戦闘で京都は食糧不足に陥っており、文和4年/正平10年(1355年)1月には関白以下の「困窮者」に対して足利将軍家の配慮で食糧が与えられる有様であった(『賢俊僧正日記』1月27日条)。だが、これ以後は南朝の攻勢も弱まり、やや落ち着いた時期を迎える[注釈 2]。だが、南北両朝の京都争奪の過程で双方が自陣営に従わない公卿に対して解官・所領没収などの処分を行って制裁したことから、南朝側からの嫌疑を避けるために朝儀への参加を躊躇う公卿が続出したために北朝の朝儀は良基ら北朝支持を鮮明にした少数の公家で行われたために、本来であれば家格・官職の要件を満たさない公卿が内弁などを務めて失態を行う事態が相次いだ。康安元年に開催された節会は全て名家級の公卿が内弁であったが、良基はこれらの節会に出仕して彼らに対する作法の指南に当たった[7]。この頃、良基は土岐頼康の娘を側室[注釈 3]とし、また文和5年(延文元年/正平11年・1356年)には救済佐々木道誉らとともに『菟玖波集』の編纂にあたり、同年3月25日付の良基の和文序が残されている。同集は遅くても翌年春までに完成し、同年閏7月11日には准勅撰として認定された[8]

ところが、延文2年/正平12年(1357年)に南朝に奔った元関白近衛経忠の子・実玄一乗院門主から排除しようとして、北朝側の大乗院が引き起こした興福寺の内紛において、良基が藤氏長者として裁定にあたったが、その内容が経忠の系統を近衛家の嫡流として扱い(裏を返せば、経忠と対抗関係にある道嗣には摂関就任権がない)、かつ自分の猶子・良玄を実玄の後継者とする(以前より二条家を含む九条流摂関家が大乗院を、近衛流摂関家が一乗院を管轄する原則があったが、良基はその破棄を意図した)ものであったため、興福寺は勿論のこと、近衛道嗣や洞院公賢(道嗣の北政所は公賢の孫娘)、更に興福寺からの南朝勢力排除を望んで大乗院に同情する態度を示していた室町幕府の不満が高まった。そして実玄を支持する一乗院の衆徒が奈良市中で大乗院派に対する焼き討ちを行ったのを機に延文3年/正平13年(1358年)9月12日、次期将軍に内定していた足利義詮[注釈 4]が関白の更迭を求める奏請を行った。ここに至って良基も窮地に陥り、11月14日に辞意を表明し、12月29日に正式に九条経教と交替した。(途中中断を含めて)関白就任から13年目のことであった[9]
良基の「天下独歩」

良基は関白の地位を追われたものの、依然として内覧の職権を与えられており、自ら「太閤」を号して朝廷に大きな影響力を与えていた。また、文化的な活動にも積極的に参加している。貞治2年/正平18年(1363年)に二条派の歌人頓阿とともに著した『愚問賢注』が同年2月30日には後光厳天皇に進上され、次いで足利義詮にも贈呈された。これは良基が歌道に関する疑問を頓阿に質問して、頓阿が二条派の立場から答えた書である。これによって、良基は二条派の庇護者としての立場を得るとともに、後光厳天皇や義詮との関係回復・強化を図ったと言える(ただし、良基自身の和歌は冷泉派の影響も受けている)。また、ほぼ同じ頃行阿(源知行)を招いて『源氏物語』の講義を聴いている。だが、関白職はこの間に九条経教から近衛道嗣に移っていた。道嗣の後見人であった太政大臣洞院公賢は既に延文5年/正平15年(1360年)に没していたものの、道嗣は天皇側近としての地位を固めつつあった。この年の6月に氏社である春日大社に納めたとみられる良基の願文草案が伝わっているが、そこには関白還補に対する強い思いと良基曰く「凶臣」道嗣への激しい非難に満ちている。だが、若い道嗣は良基の敵ではなく、願文奉納直後の6月27日には道嗣が辞任して、良基が関白に還補された。貞治5年/正平21年(1366年)長男師良が内大臣に任じられ、三男は一条房経急逝によって断絶した一条家の後継者となり、経嗣と名乗った[注釈 5]。更にこの年には冷泉為秀・頓阿らとともに年中行事歌合を主催して、朝廷儀礼や王朝古典の研究を進めた。貞治6年/正平22年(1367年)8月27日、義詮の要請によってやむなく鷹司冬通に関白を譲った。だが、良基の朝廷内部での権勢は相変わらずであった。経嗣は父・良基の没後に生前の父親を回想して「後光厳院殿御代、独歩天下、公家政務殆在掌、世有帰復(服)之威」(『荒暦』応永元年11月6日条)と記している。この年の暮れ、義詮が急死し、足利義満が室町幕府三代将軍となり、細川頼之が執事(管領)となった[11]

応安2年/正平24年(1369年)、良基の長男・師良が関白に就任した。応安4年(1371年)、後光厳天皇は後円融天皇に皇位を譲った。ところが、同年に興福寺の内紛が再燃し、暮れに一乗院実玄・大乗院教信両門跡の配流要求を掲げて新帝の即位式妨害を図るべく興福寺衆徒による春日神木の入洛が行われた。ところが、後光厳上皇が新帝の即位式を図る強訴に憤慨して強硬な態度を示し、反対に衆徒側も柳原忠光・広橋仲光・中御門宣方・万里小路嗣房ら上皇側近を次々と放氏処分として、更に幕府の信任が厚い一方で興福寺と対立関係にあった三宝院光済・覚王院宋縁・赤松性準・赤松範顕の配流という更なる条件を加えたために、良基らの仲介にもかかわらず交渉はまとまらなかった。興福寺衆徒はこの内紛の元凶は実玄を庇護した良基にあるとして、応安6年/文中2年(1373年)8月6日に良基を放氏処分にした。放氏・藤氏長者経験者の放氏は前代未聞であり、政敵の近衛道嗣ですら衝撃を受けた。ところが、良基は謹慎するどころか春日明神の名代である摂関の放氏はありえないと述べて全く無視し、翌年に後光厳上皇が危篤に陥ると直ちに参内して善後策を協議した(『保光卿記』応安7年1月27日条)。ところが、興福寺衆徒を非難し続けた後光厳上皇の崩御が衆徒を勢いづけ、更に後円融天皇の即位式を直ちに行う必要性に迫られた朝廷と幕府は要求の全面受け入れを決定し、11月8日には良基も続氏となって、神木も3年ぶりに奈良に戻った。なお、この間の応安5年/文中元年(1372年)には、良基は『筑波問答』・『応安新式』を著している[12]
足利義満と良基


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