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凡例二条満基
時代室町時代中期
生誕弘和3年/永徳3年(1383年)[1]
死没応永17年12月27日[1](1411年1月21日)
改名道忠(初名)→満基
別名福照院[1]
官位従一位、関白、内大臣
主君後小松天皇
氏族二条家
父母父:二条師嗣、母:不詳
兄弟満基、持基
子義快、成淳
養子:持基
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二条 満基(にじょう みつもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。関白・二条師嗣の子。官位は従一位・関白、内大臣。二条家8代当主。 応永5年(1398年)、3代将軍・足利義満の偏諱を受け名を道忠(みちただ)から満基と改名した[1][2]。応永6年(1399年)4月に父が出家し隠退したため、家督を継いだ[3]。 内大臣・関白・従一位と高位を歴任。応永15年(1408年)4月25日、元服する足利義嗣の加冠役を務めた(この時の官職は内大臣)。 応永17年(1410年)12月27日に薨去。享年28[1]。家督は弟・持基が養子となって継いだ[4]。実子の義快は6代将軍・足利義教の猶子となった。 歌人でもあり、『新続古今和歌集』に和歌一首が収められている[1]。 ※ 日付=旧暦
目次
1 経歴
2 官歴
3 系譜
4 脚注
4.1 註釈
4.2 出典
5 参考文献
経歴
官歴
明徳4年(1393年)、正五位下左近衛少将
応永元年(1394年)、従四位下、正四位下、従三位権中納言左近衛中将
応永2年(1395年)、正三位権大納言
応永3年(1396年)、従二位
応永6年(1399年)、正二位右近衛大将。左近衛大将
応永10年(1403年)、内大臣
応永13年(1406年)、左近衛大将辞職
応永16年(1409年)、左大臣、関白
応永31年(1410年)、従一位。12月27日、薨去。享年28。
系譜
父:二条師嗣
母:不詳
妻:不詳
生母不明の子女
男子:義快 - 6代将軍・足利義教の猶子
男子:成淳
養子
男子:二条持基
脚注
註釈
出典^ a b c d e f 安田、1990年、p.460 「二条満基」 の項(執筆:飯倉晴武)
^ 安田、1990年、p.34 「足利義満」 の項(執筆:新田英治)
^ 安田、1990年、p.461 「二条師嗣」の項(執筆:飯倉晴武)
^ 安田、1990年、p.461 「二条持基」の項(執筆:飯倉晴武)
参考文献
書籍
安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年
史料
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話
編
歴