この項目では、五摂家の一つについて説明しています。歌道と鞠道を家業とした御子左流の嫡流については「二条派」をご覧ください。
二条家
二条藤
本姓藤原北家九条流支流
家祖二条良実
種別公家(摂家)
華族(公爵)
出身地山城国
主な根拠地山城国
著名な人物二条良実
二条斉敬
支流、分家今小路家
目次
1 概要
2 江戸時代の二条邸
3 歴代当主
4 系譜
5 幕末の領地
6 脚注
7 関連項目
8 系譜参考
藤原氏北家九条流。鎌倉時代、九条道家の二男二条良実が、二条富小路の邸宅[1]を二条殿と称したのが家名の由来(二条殿は後に押小路烏丸殿を指すようになる)。家紋は二条藤
概要
足利将軍家および徳川将軍家から、代々偏諱を賜い、五摂家のなかでは、最も親幕府派とされる。また、史上最後の関白(二条斉敬)を出した家でもある。
鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白二条道平が倒幕関与の疑いを受けて鎌倉幕府より「中院禅閤(二条兼基)等子孫不可為家督」(『花園院宸記』正慶元年4月10日条)の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥った(後醍醐天皇の復帰で無効となる)。続く、南北朝時代に一時分裂したが、北朝方二条良基(道平の子)のもとで勢力を取り戻した。特に明治以前の即位式において新天皇に灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は室町時代以後二条家が独占していた。江戸時代、当時の摂家最大の実力者とされていた近衛基熙が本来は摂関家全てに即位灌頂の礼式が伝わっている事、先代当主の二条光平の早世で礼式が絶えたことを理由に二条家の独占を継続すべきではないと唱えた。これに対して霊元上皇は他家にも伝わっているにも関わらず二条家の独占になっているのは相応の理由があるからであるとして、たとえ二条家当主が現職の摂関・大臣でなくても「即位灌頂」のみは二条家当主が行う事、もし当主が幼くして二条家を継いだ場合には儀式の秘法を知るもう一人の存在である当代の天皇が責任をもって当主に伝授する事を裁定して公式に二条家の独占となった。
江戸時代の屋敷跡地は、京都御苑の区画外に位置していたため、他の4家の摂政関白家とは異なり公園とはなってはおらず、同志社女子大学の構内となっている。 江戸初期には京都御所南部にあったがのちに北部に移転した。現在は同志社女子大学今出川キャンパスの敷地の一部となっている。茶室は同志社大学に移築され現在も保存されている。政所御殿と表門は随心院に移築され、それぞれ庫裏、総門として使われている。
江戸時代の二条邸
歴代当主
二条良実(1216年 - 1271年)
二条師忠(1254年 - 1341年)
二条兼基(1268年 - 1334年)
二条道平(1287年 - 1335年)
二条良基(1320年 - 1388年)
二条師良(1345年 - 1382年)
二条師嗣(1356年 - 1400年)
二条満基(1383年 - 1411年)
二条持基(1390年 - 1445年)
二条持通(1416年 - 1493年)
二条政嗣(1443年 - 1480年)
二条尚基(1471年 - 1497年)
二条尹房(1496年 - 1551年)
二条晴良(1526年 - 1579年)
二条昭実(1556年 - 1619年)
二条康道(1607年 - 1666年)
二条光平(1625年 - 1682年)