二条御所
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二条御所(にじょうごしょ)は、京都府京都市上京区武衛陣町に存在した御所。

徳川氏二条城と区別して、旧二条城、二条古城とも呼ばれる。現在は旧二条城跡として知られている。また、創建当時は二条城とは呼ばれておらず[1][2]、この呼称は江戸時代になって用いられたものである。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様の御城」「二条武衛陣の御構」などと呼ばれていた[2][3]

足利義輝足利義昭の二条御所が知られており、どちらも同じ場所にあった[4]。義昭の御所は義輝の御所の跡地を拡大し、普請されたものである[2]

また、かつて二条御所は誠仁親王の御所と同じ場所にあったとされてきたが、現在は違う場所にあったことが証明されており、こちらは二条新御所と呼ばれている。
歴史
足利義輝の時代

永禄7年(1564年)12月以降、足利義輝戦国乱世のただなかにあって、室町幕府の重鎮であった三管領斯波氏の屋敷・武衛陣の跡地に新たな屋敷の建築を開始した[5][6]

この御所は当時、「二条武衛陣の御構」と呼ばれていた[7]。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。また、御所は勘解由小路烏丸室町間に作られ、二条通との接点を持たないにもかかわらず、二条の名を冠している[2][8]

永禄8年(1565年)5月19日、三好義継三好三人衆松永久通とともに一万の軍勢で二条御所に押し寄せ、義輝に訴訟(要求)ありと訴え、取次ぎを求めて侵入した(永禄の変[9][10]。御所には堀もあったが、門は完成寸前の状態であった(「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)。

義輝は奮戦するも、多勢に無勢であり、遂に討ち取られた。殺戮が終わると、三好軍は二条御所に火をかけ、多くの殿舎が炎に包まれたという[10]

変後、跡地には真如堂が移された。
足利義昭の時代二条古城 石垣(京都御苑内)

義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として、永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていた[11]。だが、翌12年(1569年)1月に三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変[11]。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により、三好軍を撃退し、防戦に成功した。

信長はこの戦いを受けて、さらに防備の整った御所の必要性を認識し、義昭のために城構えの居館を造営することを決めた。また、三好氏に焼き払われた「光源院(義輝)御古城」を再興する必要もあった[12]

御所の創建は、かつて義昭の兄・義輝の御所があった地が選ばれた[12]。そのため、この地にあった真如堂には「替地」が与えられ、普請の準備が進められた[12]。また、御所は義輝の武衛陣の跡地を中心に北東に拡張して、約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とすることにした[13]


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