二条天皇
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二条天皇
二条天皇
第78代天皇
在位期間
1158年9月5日 - 1165年8月3日
保元3年8月11日 - 永万元年6月25日
即位礼1159年1月11日保元3年12月20日
大嘗祭1160年1月3日平治元年11月23日
元号保元
平治
永暦
応保
長寛
永万
時代平安時代
先代後白河天皇
次代六条天皇

誕生1143年7月31日康治2年6月18日
崩御1165年9月5日永万元年7月28日
押小路東洞院
大喪儀1165年9月13日(永万元年8月7日
陵所香隆寺陵
追号二条院
(二条天皇)
諱守仁
元服1156年1月3日久寿2年12月9日
父親後白河天皇
母親源懿子
中宮?子内親王
藤原育子
子女六条天皇
?子内親王
尊恵法親王
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二条天皇(にじょうてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:二條天皇、1143年7月31日康治2年6月18日〉- 1165年9月5日永万元年7月28日〉)は、日本の第78代天皇(在位: 1158年9月5日保元3年8月11日〉- 1165年8月3日永万元年6月25日〉)。は守仁(もりひと)。

後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子
略歴

雅仁親王(後の後白河天皇)の長男として生まれる。生母・懿子が出産直後に急死したことで、祖父である鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に養育された[注釈 1]

近衛天皇が即位しており、同じく美福門院の養子として重仁親王崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは薄く、僧侶となるために9歳で覚性法親王のいる仁和寺に入った[3]

その後、孫王(二条天皇)は仏典をよく読みこなし「ちゑふかくおはしましけり」[4]と評判になった。仁平3年(1153年)9月、近衛天皇は重病となり、関白・藤原忠通は鳥羽法皇に「雅仁親王の息童」への譲位を奏請した[5]。鳥羽法皇はこの提案を幼主を擁立して政を摂り威権を専らにしようとする忠通の謀略と看做し、忠通の父である藤原忠実も雅仁親王が黙っているはずがないと指摘して「関白狂へるか」と非難している。孫王擁立案は拒絶されたが、この時から孫王は皇位継承候補者の一人として浮上することになる[注釈 2]

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・孫王・ワ子内親王が上がったが、孫王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。孫王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった[注釈 3]。8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月9日に元服、翌年3月5日には美福門院の皇女・?子内親王を妃に迎えるなど、美福門院の全面的な支援を受けた。

保元3年(1158年)8月11日、後白河天皇からの譲位をうけ践祚。これは「仏と仏との評定」[12]によるもので、美福門院が信西に強く要求して実現したものであった[注釈 4]

二条天皇を支える勢力として、藤原伊通(美福門院の従兄弟)・大炊御門経宗(二条生母・懿子の弟)・葉室惟方(二条の乳母・俊子の子)らが集結して、二条親政派を形成した。ここに、二条親政派と後白河院政派の対立が始まった。二条天皇は美福門院に育てられたこともあり、実父・後白河上皇との関係は冷淡なものであった。平治元年(1159年)12月に平治の乱が起きた[注釈 5]。乱勃発直後は、藤原信頼が政局を主導するが、これを快く思わない三条公教と親政派が反発し、三条公教の計らいにより平清盛を親政派に引き込み、親政派と清盛の策謀により二条天皇は清盛の六波羅邸へ行幸する[注釈 6]。二条天皇の六波羅行幸によりそれまで官軍だった信頼一派は賊軍となり、天皇を動かした経宗・惟方らと平清盛が官軍の地位を獲得して勝利を得る。

乱が終結した直後の12月29日に美福門院の八条邸に行幸し、翌正月には太皇太后・藤原多子を入内させる(二代の后)。『平家物語』は多子の入内を二条帝の独断とするが、後見の美福門院や側近の大炊御門経宗・葉室惟方がこのような重大問題に関与しなかったとは考えにくく、二条天皇の立場を固めるための政略的な婚姻と推測される。しかし、3月に経宗・惟方が後白河上皇の命により配流されて失脚、7月には藤原隆信藤原雅長院昇殿停止処分を受け、8月には中宮・?子内親王が病により出家[注釈 7]、11月には後見の美福門院が死去するなど二条親政派の要人が次々に消えて、二条天皇の立場は不安定となり後白河院政派が勢力を拡大した。表面的には「院・内申シ合ツツ同ジ御心ニテ」[17]というように二頭政治が行われたが、両派の対立は深く「上下おそれをののいてやすい心なし、ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに同じ」[18]という状況であった。

二条天皇が頼みとしたのは、藤原伊通と平清盛だった。伊通は太政大臣として二条を補佐し、政道の意見書『大槐秘抄』を著した。また乳母・平時子を従三位典侍にするとともに[19]、時子の夫・清盛を検非違使別当・中納言にすることで軍事的な後ろ盾とした。応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子の間に生まれた第七皇子(後の高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚すると、二条天皇は後白河院近臣の平時忠平教盛藤原成親坊門信隆を解官した。後白河上皇の政治介入は停止され「主上二条院、世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ」[17]という状況となる。実権を掌握した二条天皇は、親政の拠点を押小路東洞院の内裏に据えて清盛に警護させた。12月には美福門院の皇女・ワ子内親王に八条院の院号を与えて准母となし、出家していた?子内親王にも高松院の院号を与えた。さらに、藤原忠通の養女・藤原育子(むねこ、実父は徳大寺実能)を中宮として、関白・近衛基実とも連携して摂関家も自らの下に取り込むことに成功した。応保2年(1162年)には叔父・大炊御門経宗を召還する一方、自らを呪詛した平時忠・源資賢を配流するなど着々と政治基盤を固めていった。

二条天皇は悪僧神人の統制令や荘園整理など、信西の政策を踏襲して積極的な政務を展開する。


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