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二本柳俊一
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県
生年月日 (1947-06-21) 1947年6月21日(76歳)
所属団体日本中央競馬会(JRA)
初免許年1984年(1985年開業)
重賞勝利2勝
経歴
所属中山→美浦・二本柳俊夫(1974年 - 1984年)
美浦T.C.(開業 - 2018年)
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二本柳 俊一(にほんやなぎ としかず、1947年6月21日 - )は、千葉県出身の元調教助手・元調教師。
父は元騎手・元調教師の二本柳俊夫、息子は元騎手・現調教助手の二本柳壮[1][2]、義父は野平祐二[3]。 野平の長女である妻と結婚する際、仲人を務めたのは野平に師事していた[4]大橋巨泉で、妻の希望で結婚式はカナダ・バンクーバーで挙げた[3]。1981年に息子の壮が誕生するが、巨泉は幼少の頃の「ソンソン」と呼び、後に自身の著書で「壮君のさっそうとした騎乗ぶりを見るたびに、女房とあの結婚式の話になる。」と綴っている[3]。 後に殿堂入りする父・俊夫の下で調教助手を務め、1984年に調教師免許を取得し、後継者として1985年に開業[5] [6]。 1年目の1985年は3月9日の中山第12競走5歳以上900万下・デアリングパワーで初出走初勝利を挙げたが、初年度は出走させた頭数も少なく3勝に止まる。1989年は初の2桁で自己最多の17勝をマークし、1991年まで3年連続2桁勝利を記録。バリエンテーが1989年のダービー卿チャレンジトロフィー2着、1990年は金杯(東)2着・関屋記念3着、1991年には京成杯オータムハンデキャップを制す。1991年はシンコウアンクレーを障害に転向させ、6頭立ての中山大障害(春)に出走させる。レースは大逃げのクリバロンが大竹柵で転倒し、最後方にいたオキノトモヅナも同じ場所で落馬したため4頭立てとなった。その後はクリバロンに替わってシンコウアンクレーが逃げ、並びかけるようにシンボリクリエンスが追走。シンコウアンクレーは大生垣でややバランスを崩したが、最後まで先頭をキープしてシンボリクリエンスやパンフレットを倒した。勝ちタイムは4:38.1であり、1979年春のバローネターフのレコードを0.4秒更新し、二本柳にとっては初の重賞制覇であった[要出典]。 1993年から1995年には3年連続2桁勝利を記録し、1993年には優駿牝馬でグランドクロスがホクトベガ・ワコーチカコを抑えて5着と健闘。1997年には4歳牝馬特別(西)でグランシェールが4着となるが、桜花賞出走を果たし、鞍上の柴田大知はGI初騎乗となった。1999年からは息子の壮がデビューし、騎乗や勝鞍の大半を占めるようになる[要出典]。 1996年からは1桁台が続くなど低迷し、2008年は3勝全てを丸田恭介の手綱で挙げ、3勝中2勝は4月19日・翌20日の福島で最下位人気による2日連続勝利であった。
経歴