二本松藩
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二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国南部(岩代国安達郡(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した。居城は二本松城(霞ヶ城)。
藩の前史

二本松は戦国時代まで畠山氏の所領であったが、天正14年(1586年)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして伊達領になる。天正18年(1590年)7月に小田原征伐北条氏直を降した豊臣秀吉は8月に会津に入り、奥州仕置とそれに伴う奥州再仕置により、二本松は会津の領主となった蒲生氏郷の領地となった[1]。氏郷は織田信長の娘婿であり、これ以前は伊勢に所領を持っていた。蒲生時代には秀吉の命令で天正・文禄年間に検地が行われて蒲生領は91万9320石とされた[1]。文禄4年(1595年)2月に氏郷は急死し[2]、嫡子の蒲生秀行が跡を継ぐも、この際に秀吉の命令で会津黒川・白河・二本松を除く領内の城の大半が浅野長政幸長により破却された[3]。秀行は家康の3女振姫と結婚するが、慶長3年(1598年)1月に下野宇都宮18万石に減封・移封となった[3][4][5]

代わって会津に入部したのは、越後春日山城主の上杉景勝であり[6][7]、蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石で入った[8]。景勝は二本松のある積達地方の支城には安田能元下条忠親・秋山定綱・山浦景国・市川房綱らを入れて固めた[8]。秀吉没後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、西軍が敗れると景勝は徳川家康によって慶長6年(1601年)8月に90万石を減封の上で出羽米沢藩30万石に移封され[9]、代わって会津から宇都宮へ移っていた蒲生秀行が60万石に加増されて入部し[10]、二本松もその支配下に入った[11]。秀行の時代には凶作・飢饉・大地震・風水害が起こり、それに加えて年貢の増徴と諸役の重負担で百姓の逃散が相次ぐ[11]。秀行は慶長17年(1612年)5月に30歳で死去し[12]、嫡子忠郷が継ぐが[12]、先代から続く家中内訌もあり、寛永4年(1627年)1月に忠郷も早世すると[13]、幕府は忠郷に継嗣が無い事を理由に会津領60万石を改易した[11][13](ただし名跡、所領は伊予で存続[13])。
藩史
松下家の時代

忠郷没後の2月、伊予松山藩20万石から加藤嘉明が倍に加増された40万石で会津に入部した[11]。嘉明は豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳七本槍の1人に数えられる武将である。この時、嘉明の娘婿であった松下重綱が与力大名として下野烏山藩2万8000石から2万2000石を加増されて5万石で二本松に入部したことから、二本松藩が立藩した[14]。重綱は豊臣秀吉が若い頃に主君として仕えていた時期がある之綱の息子である。松下領は東安達郡18村と西安達郡28村を支配した[14]。しかし重綱は同年10月に病死し、嫡子長綱が跡を継ぐが、幕府は長綱幼稚を理由にして寛永5年(1628年)1月に2万石を減らした3万石で陸奥三春藩に移封した[14]
加藤明利の時代会津藩主の加藤嘉明

長綱と入れ替わりで二本松に入部したのは、嘉明の3男・加藤明利であった[14]。明利は前年に父が会津に入部した際、三春藩3万石を与えられていたのである[14]

だが寛永8年(1631年)9月に嘉明が亡くなり、嫡子明成が継ぐと、加藤領では会津でも二本松でも厳しい新田検地が実施された[15]。これは気候温暖で農業先進帯であった四国から寒冷な後進地である会津・二本松へ国替えされ、しかも倍以上の加増となったためにそれに見合う幕府の軍役と普請を負担することになり、財政難が深刻化したためであった[16]。このため加藤家は新田開発を推進する一方で年貢を増徴し[16]、二本松の領民は加藤家の苛政に苦しんだ[15]。このため徳川家光が奥羽松前巡見使を派遣した際、積達地方では加藤家の苛政を訴える訴状を巡見使に提出しようとまでした(『年代記』)[15]。だが加藤家は妨害して訴状提出は失敗し、巡見後に厳しく探索されて首謀者らは摘発されて寛永12年(1635年)に処刑された[16]

また二本松領では年貢以外の雑税(小物成)も厳しく増徴されたが、他にも会津若松城修築や江戸城普請の国役による労役負担も重くのしかかった領民は身売りや逃散が相次いだ[17]。逃散は寛永19年(1642年)にピークを迎えたが、これは連年の年貢増徴と同年の凶作が発端である[18]。こうして二本松藩では完全に藩政が行き詰まり、その中で明利は寛永20年(1643年)3月に死去した[18]。5月には加藤宗家の会津藩主である明成が家中騒動や悪政を理由に改易されると、明利の跡を継いでいた息子の明勝も亡き明利の生前の行状がよろしからずとして二本松藩3万石を改易に処した[18]
丹羽家の時代二本松初代の光重

加藤家改易後の8月2日、陸奥白河藩主であった丹羽光重が10万700石で入る[19]。光重は織田信長の絶大な信任を受けた重臣で「米五郎左」と称された丹羽長秀の嫡孫であり、信長の重臣であったという名家の所以から、国主格の厚遇を受けることとなる。二本松2代の長次


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