二本木_(熊本市)
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二本木
大字
二本木の街並み(2013年撮影)
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日本
都道府県 熊本県
市町村 熊本市
西区
面積
 ? 陸地0.55 km2
人口(2022年令和4年)2月1日現在)[1]
 ? 合計3,340人
等時帯JST
郵便番号860-0051[2]
市外局番096[3]
ナンバープレート熊本

二本木(にほんぎ)は、熊本市西区の地名。現行行政地名は二本木一丁目から二本木五丁目。熊本市西区で最も人口密度が高い地区である。郵便番号860-0051[2]。2016年(平成28年)時点での高齢化率は30.8%である。
地理

熊本市西区の南東部に位置し 北側は
熊本駅の所在地である春日町と南は蓮台寺と接している。

町の東側を 白川が流れ、西側を 坪井川 が流れていることで 南北に細長い形をしている。

坪井川はかつては長六橋付近で白川に合流していたが、加藤清正熊本城築城に合わせた城下町整備に伴い、祇園橋から白川橋間に築かれた石塘により白川から分離され現在の形状となった。
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河川

白川 (熊本県)

坪井川 (熊本県)

名前の由来

国府鎮護の護国寺の裏門近くに二本の木があったから、という説が有力である。(護国寺の場所は現在の古町グランド付近)

歴史

弥生土器が二本木町の湯ノ原(現二本木五丁目付近)の畑から出土しているためこの頃には人が住んでいたと推定される。ちなみに二本木から出土したものと宮崎県日向地方で出土したものと文様が同系統であるという。

二本木遺跡群の調査により
奈良時代には何らかの役所があったと考えられている

平安時代から800年にわたり肥後国府(飽田国府)がおかれ、今で言う官庁街であり熊本の中枢であった(場所は現在のKAB付近と推定される)

861年 - 国府庁が湯の原(現二本木5丁目)に創建

893年 - 寛平の韓寇、『新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す』と 日本紀略に記録されている

934年 - 北岡神社の前身である祇園宮(ぎおんぐう)が藤原保昌によって湯ノ原(現二本木5丁目)に創建(京都の八坂神社の御分霊を勧請)

937年 ‐ 国府庁が車屋敷〈現二本木二丁目〉付近に遷座

937年 - 祇園宮が車屋敷〈現二本木二丁目〉付近に遷座

1580年 - 阿蘇氏島津氏の合戦(旦過の瀬合戦/飽田合戦)が白川河川敷(現在の世安橋付近)で行われた。二本木側には隈本城主城親賢が陣を開いたと考えられている

1757年 - 熊本藩第6代藩主・細川重賢が医師 村井見朴のススメにより医学校再春館が設立される(旧 宮寺村付近)

1783年 - 古町村出火、86軒焼失

1833年 - 雨ごい活動が行われる(△水王人形 太鼓(宮寺村)△珠逐ひ龍 僧都馬上馳(古町村)△社司二人太刀持傘持乗馬一匹馳(久末村)

1872年 - 廃藩置県により白川県が誕生(県庁所在地から飽田県や二本木県という案も検討されたが、知名度が低いため象徴である川の名前になった)県庁を古町村に設置。(現在は二本木3丁目に記念碑が残るのみ)[4]

1872年 - 明治西国御巡幸中の明治天皇が白川県庁に立ち寄る。随行していた西郷隆盛も一緒だったという。

1874年 - 古町村、宮寺村、久末村の一部が合併し古町村となる。

1874年 - 田崎学校創設(現 古町小学校の前身)

1875年 - 白川県庁に白川県 警察部が第四課を設置。

1875年 - 11月24日 白川県庁が熊本城に移転し それに伴い翌年には県名も熊本県に改称

1876年 - 11月 古町村字大明神遥拝宮の南隣に白川学校落成

1877年 - 西南戦争時、薩軍本営が今の二本木神社横の質屋・築地悌四郎方に置かれる

1879年 - 伝染病専門病院である二本木避病院が古町地区に設置される(熊本市立白川病院の前身)

1893年 - 白川学校を古町尋常小学校と改称

1900年 - 発音器の盗難事件が発生/二本木角油屋の前に一人の子供が発音器を出している所に一人の男が入込みに紛れ,護摸一本を盗み取りて行衛知れず逃げ失せし。件の男は新町辺の菓子屋の丁稚との噂。

1906年 - 二本木遊廓の入り口として三橋橋落成 落成式は3日間にわたって行われた

1906年 - 遥拝大明神社から二本木神社へ改称。現在の鳥居や狛犬が設置された

1921年 - 熊本市に編入。二本木に改称(当時人口 4,680人)

1927年 - 有明海台風により二本木病院本館が倒壊[5]。古町小学校校舎に被害がでる。

1953年 - 6・26熊本大水害で坪井川と白川に囲まれた二本木では大被害が発生 白川橋が流失

1962年 - 熊本鉄道病院 開院

1978年 - 白川橋際の不法建築撤去のため、移転先として二本木グラウンドに改良住宅を建設

2005年 - 熊本朝日放送が国鉄病院跡地へ移転

平安時代から江戸

肥後国府(飽田国府/二本木府中)がおかれていた頃は、人々から 四神相応の都のようだと言われていた。北に北岡・花岡山・万日山、東は白川、西は白坪・城南などの平野、南は白川河口を背負いあたかも平安京のようだと称したという。

北岡神社などの「北岡」という地名は 国府があった二本木よりも北側にある丘陵地帯であったため。

律令政治の崩壊とともに一時肥後の中心地としての機能は失うが、二本木はその後も大きな集落として継続し、古国府(古府中)と呼ばれることになる。

二本木遺跡からは華南三彩 トラディスカント壺[つぼ](中国南部で16世紀末から17世紀前半ごろに作られたとみられる)が出土しているため南蛮貿易を行っていたとみられる

肥後熊本藩第7代藩主細川治年の正室の謡台院(埴姫)が住んでいたとされる二本木御殿。


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